キレイな世界とキタナイ世界

 「キレイな世界」と「キタナイ世界」の二項対立が頭から離れない。二つの意見の対立って、往々にして極端で非現実的な例の対立であって、現実はその2つの中間にあることが多い。だけど、最近僕の頭はこの二項対立でいっぱいだ。

 キレイな世界とは、白と黒の世界であり、表と裏がはっきりしている世界だ。ここでは、会話は全て本音で繰り広げられ、全ては言葉と数字によって矛盾無く記述できる。論理と数学の、美しい世界であり、対立する物事を比較して、真偽を下すことができる世界だ。
 一方で、キタナイ世界とは、灰色の世界であり、裏と表がはっきりしない世界だ。ここでは、会話は「建前の応酬」であり、言葉で記述できない(=理解できない)理不尽な出来事が普通に起こる。論理も数学も無いうえ、「起こっていることが正しい」という暴力的な宣言が通用する世界であり、物事を比較するための軸が存在しないため、真偽の判断すら下すことができない世界だ。

 僕は、生まれてからずっと、キレイな世界で暮らしてきたのだと思う。言葉で記述できないものは存在しない(できない)と思っていたし、理詰めで考えていけば、必ず答えにたどり着ける(「答えが無い」という答えも含め)と思っていたし、人間は思っても無いことを口にしたりすることなどないと思っていた。そして、大人になるにつれて、そんな世界がどこまでも広がっていくのだと思っていた。

 だけど違った。最近気付いた。実は、「キレイな世界」は「キタナイ世界」の部分集合だったのだ。どうやら、キレイな世界は有限で、その外側には、キタナイ世界が果てしなく広がっているらしい。この事実に気付いたということは、僕はすでにキタナイ世界との国境まで来てしまっているということなのだと思う。実際最近、他人を見て、「この人はキレイな世界に住んでるな」みたいなコトを感じるようになってきてしまった。あと一年も経てば、キタナイ世界での生活を受け入れてしまっているのだろうなと思う。その頃の自分がどうなってるのかは知らないけど、キレイな世界をなんとか広げようと頑張っていればいいと思う。

 まぁ、最初に言ったように、やっぱ現実はこの二つの世界の中間なんだろうな。やっぱ世界は灰色だー。