今日も時間の無駄遣い

 学校の実習で、ある程度自由なテーマで研究させてくれるコースを履修しているんだけど、
そこで僕が一ヶ月近く取り組んできたテーマの実験が今日終わった。


 自分で観察して、自分で仮説を立てて、自分で実験を組み立てる。
うまく行かないと、理由を分析して、実験方法や仮説を疑う。
そうやって少しずつ進みながら、思い通りの結果が得られたときは本当に鳥肌が立つ。
今日が期日的に最後の実験で、初めて思い通りになったから、
爆発しそうなくらい嬉しくて、夢中になった。


 複雑怪奇な自然現象に自力で説明を与えることに成功したことが嬉しいだけでなく、
味わって分かったが、自然を論破した、自然に自分の考えを認めさせた、というような優越感がたまらない。
今のところ、これを越える興奮は見つからない。
今選択している進路を感情的に肯定できたことが、とても嬉しいし、誇りだと感じる。


 最近、頭の中での哲学的な議論が複雑になりすぎて、
考えていることをここで言語化するのを諦めるようになってきた。
「思っているけど言語化できない」ということは、理解できていない、ということだと思っていて、
これがよく知らないまま知った気になっている気がして嫌なんだけど、
これ以上議論に正確さを求めると、現実を生きる時間が無くなることに気が付いたので、どうしようもない。
だから、そういう議論に浸る精神的余裕があるということは、
同時にそういう時間的余裕があるということであり、それに感謝しなければならないと思う。


 そうなると、身の回りの「分析しがいのあるもの」から、
「優先的に分析すべきもの」と、「未解決のままおいておいても我慢できるもの」
とを「分類」する必要が生じてくる。


 全ての物事は分類し、「レッテルを貼る」ことでしか認知できないが、
その分類が妥当かどうかは経験的に判断するしかない。これがとても難しい。
例えば、性別を「男」と「女」に分けるのだって、
経験的に、性別という存在とその判断基準を仮定して、2つに分けることが妥当で便利であるからに過ぎない。


 経験に基づかない分類は不確実で、危険だ。
さっきの性別の話は、ほぼ誰もが経験的にその分類で実用上問題がない(妥当である)ことを知っている。
でもたとえば、僕が最近思うのが、「人を見下す考え方」について。
僕は経験的に、人を見下す態度を出すと、相手を不快にさせ、自分から遠ざけ、
自分が不幸になることを知っているから、
その考え方を「出してはいけない考え方」に分類するのは妥当だと思っている。


 でも僕はそれを、「してはいけない考え方」としても分類していた。
これは経験的判断に基づかず、他人に貼られたレッテルだ。
「人を見下しちゃだめだよ」って言われ続けた結果、貼りつけられた。
ガキは「思ってても言わない」ってのができないから、これはしょうがないと思うけど。
その結果、人を見下してしまう自分に嫌悪感を覚え、苦しんでいた。


 今は僕は経験的に、「人を見下す考え方」は、少なくとも僕の中では、
自分を肯定して、自信をつけるにおいて、必然的に生じる考え方で、
ある程度はむしろ推奨されるべき考え方であり、
外に出さなければ問題が生じない考え方であることを知っていて、そのように分類している。


 こんな感じで、分類に必要なレッテルは経験に基づいて、自分で貼る必要があり、
他人に貼られたものがあれば、それに気付いて剥ぐ必要があると思う。


 だから今、何を「優先的に分析すべきもの」に分類するか、
経験的な判断基準が不足していてとても困っている。
しかもこの問題を解決すること自体が「最優先されるべき」であるという、
自己言及的な矛盾に陥ってしまっている。
だから今はとりあえずこれを解決するために、
「矛盾」とか「理不尽」にどう向き合うかということを分析中。
将来味わうであろうより複雑な世界では、矛盾や理不尽だらけだと思うから、
余裕のあるうちに、「優先的に」これを考える価値はあると考える。


 だが、論理は矛盾に敗北し、矛盾は矛盾だけで、自己言及的に存在できる。
説明不要な概念は「無」だけだと思っていたが、
「矛盾」もまた、説明不可能という意味で、説明不要な存在だと思う。複雑で厄介な奴だ。
言語化できないけど、「矛盾の立場」から論理を見ることができれば話が進みそうな気がする。