知識の正体

 最近、本が面白い。今まで全く本を読まない人間だったのに。
本を読む時間を作ることが、
現実世界の課題を効率的に片付けるモチベーションにもなっている。


 本にも色々あるけど、今の僕は文学チックなものよりも、
なんらかの知識について書かれた本に興味がある。


 そんな感じなので、最近本屋に行くと、つい長居して、衝動買いしそうになる。
その度に、必ず値段を見て、バイトの時給(900円)換算して、
「900×α円のこの本を買うためにα時間働く価値があるのか?」
と考える。
だが、ここのところ、その基準が甘くなり、簡単に本に金を出すようになった。
これは何を意味しているのか。


 まず一つ考えられるのが、バイトで「働ける時間」(上のα)の価値が下がった、ということだ。
確かに、束縛されない、「自由に使える時間」は以前に比べて圧倒的に多いように感じる。
たぶん、他人から見れば、僕はヒマで幸せな生活だ。
しかし現実的には「時間は有限だ」という事に気が付いた時点で、
自分の中での時間の価値はこれまでになく急騰した気がする。
特に、今ある「自由に使える時間」の価値は恐ろしく高いと思う。
自由だからこそ、常に様々なものを天秤にかけて、
自分にとって最も必要だと決め付けたことをやるようにしている。
だから、最近バイトに時間を回す余裕が無くて、バイトはほとんど行っていない。
そういうわけで、「働ける時間」の価値が下がったという可能性はないような気がする。

 
 次の可能性は、お金の価値が下がったということだ。
これは大いに考えうる。部活を引退して、電気代が払えんような状態からは脱出した。
一応、自分の中でお金の価値が下がるのが怖いから、
黒字だけど節約の精神は忘れないようにしているけど、
やっぱり本を簡単に買ってしまうのは、
自分の中でお金の価値が下がっていることを意味しているのかもしれない。

  
 最後の可能性は、本の価値が上ったということだ。
これは自覚として感じているから間違いないのだろう。
一因としては知識の価値が高騰したことが挙げられる。
なぜ知識の価値が高騰したのか、知識の価値とは何か、
ということを考えたけど長くなるので今日はいいや。


 そして本の価値が上った原因はなによりも、
「文章への敬意」みたいな感情が発生しだしたことだと考えられる。
ヘボくて短い文章しか書けない自分にとって、
知識を解説する文章を書ける人は神のような存在に感じられる。


 自分が読んだ本の「内容」を、頭の中で再生するのは簡単にできる。
だがそれに、誤解が起こらない最低限の前提を付加し、
しかもそれを論理構造にしたがって文章化する、というのは、本当に神のなせる業だと思う。
僕はそれができなくてとても苦しんでいる。
だから、本によって与えられる知識だけでなく、
その知識を吸収できる形に変換している文章、そしてその筆者に敬意を払って、
本に価値が与えられている気がする。


 だけど実際は、知識には取り分がないから、
買い手が筆者と知識に払ったつもりでいる金額は、全て筆者が受け取っている。
そう考えると、知識の正体ってなんなんだ?
僕は知識にもお金を払いたいのに。
もういいや。今日は考えるのめんどくさい。