相対主義の自己矛盾

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9


相対主義の自己矛盾」にハマっている。
自己矛盾してるんだけど、どうしても反証できない。
宗教的な先入観を嫌うことに宗教的になっている。
相対主義を客観的に説いている本を読んでみたいけど、
相対主義によれば客観的な立場は存在しない。


 神という絶対的存在で色々肯定できる考え方がうらやましい。
ぼくは神を信じないかわりに、「時間」を唯一の絶対的存在として、
「考える時間がもったいない」という反論で相対主義を抑えてたんだけど、
「時間の使いかた」も相対的に決定されていることに気づいた時点で
その絶対的効力を失ってしまった。


 じゃあ一体どうすればいいのか。一つ思いついたのは、
「自分は生命である」という、追求が難しい命題を絶対的なものとして信じて、
行動の究極的な動機を生命的な本能(肉体的、精神的快楽)に到達するまで追求すれば、
自分の行動や思考の根拠を説明できるのではないか、ということだ。
だけどこの考え方だと、本能から遠ざかる概念ほど説明が難しくなる。
例えば、自分が政治家ではなく研究者になりたい理由は、これでは説明が難しい気がする。


 もう一つ思いついたのが、というかずっと前から考えているのが、
「現実」を絶対的存在として信じることだ。
これは要するに、決定論的に、
「自分は現実に生きていて、現実に従っているにすぎない」
と考えることだ。


 だけどこの考えは、「何が起こってもそれを現実として受け入れることができる」
という前提の上にしか成り立たない。
ぼくの心は発表が上手くいかなかっただけで自己嫌悪になるし、
毎日健康に生きているのにも関わらず変化を求める。
そんな前提、もし成り立ったとしても期間限定に決まっている。


 だめだ。どうにもならんし、こんなことを考える自分もきもい。
無宗教で生きるのは無理だ。
ヘンな宗教にハマる前に無難な宗教に入信したい。