これからどうなる

 ふと、一回生のころにつけていた日記を読んだ。
それから、入学式のときに撮った自分の写真をみた。
もうあの頃の単純な気持ちは戻ってこないんだなぁ、と真剣に考えてしまった。
3年後の俺がこんなことになってるとも知らずに。
いつからこんな難しい人間になったんだろう。


 あのころ見えなかったものが今はたくさん見えているけど、
見えてしまったことによって考えられなくなったコトもたくさんある。
以前より世界がクリアになった代わりに、感情の起伏を失ったような気がする。
あらゆるものを分析して、自分なりに納得し、冷静な感情を求める姿勢は、「良い」ことなのだろうか?


 本をよんだ。

最近、社会の「情報化」「国際化」というテーマを扱ったモノに興味がある。

本書を通じて流れているテーマは、私たちはなぜ、ありもしない「何か」に向けて必死になり、突然空気が抜けるように萎えてしまうのか、ということだったように思える。(あとがきより)


 ニートの問題から入り、「鬱」と「躁」を行き来する若者を
社会の変化に照らし合わせて分析している本、という印象。
タイトルの「カーニヴァル」というのは、情報化のなかで、
人々が情報の「内容」よりも、その「ネタ性」を頼りに盛り上がるさまを表している。
前半と終盤は面白かったけど、中盤は読みにくくてよく分からなかった。

・・・言い換えれば、私たちの社会は、多数の、内的に幸福な、しかし客観的には搾取され、使い捨てられる大衆と、夢から覚めているが故に内的には不幸だが、セーフティーネットや社会的資源を活用することのできる少数のエリートへと分極化する可能性を有しているのである。(P167より)

これは、まさに最近感じていることだ。
しかし、「エリート」という肯定的表現は微妙だと思う。
幸福なのは前者だ。


 しかし、これを読んで、社会学という学問の難しさを感じた。
というのも、「再現性がない」ものを分析しているからだと思う。
多くの自然科学は、得られた結果を、
場所や時間や温度といった条件を変えて実験することで、検証することができる。


 それに対し、「社会」は一つしかないから、分析結果を検証する場が無い。
だから、立場によっては如何様にも分析可能だし、
「今の社会」を説明してさえいれば、その理論にはそう簡単には反論できない。
さらに、「そんなんだから、そんな分析自体が無意味だ」という意見とも戦わなければならない。
温暖化の問題にも似たような難しさがある気がする。
そして残念ながら、人生にも再現性がない。
だけど僕は、再現不可能な問題でも、それが問題になっているなら、
可能な限り正確な分析の努力をして、それに基づいて手をうってみるべきだと思う。


ちなみに、この本の著者は次の本のなかで批判されているらしい。

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

なかなか過激なタイトルだ。
温暖化の方でも、似たような論争があるけど(環境問題はウソだ!みたいな)、
こういうのって上手く説明しているように見せられると
それが本当のように見えてしまうからこわい。
問題は、統計とか論理に則って、その意見が信じるに値するかどうかだ。
カーニヴァル」に乗せられないように気をつけよう。