将来が暗すぎる

 人に嫌われると傷つく。
当たり前だけど、僕はこのことに対する耐性がなさすぎる。
だからすぐ、「客観視」に逃避して、自分を正当化しようとするのだと思う。
客観視を繰り返して気付いたけど、
客観的立場は、何も主張していない立場でもあり、
誰にも嫌われない立場だが、誰にも好かれない立場でもあり、
そんな立場、もともと存在しないのと同じだ。


 人付き合いは人に好かれるためにするんじゃなくて、
互いに意見をぶつけて、新たなものを獲得するためにあるんじゃないだろうか。
何度そう言っても、僕の脳はなかなか言う事を聞いてくれない。


 最近、世界の情報化について妄想するのが楽しい。
「ユーザーはいかにテキストを読まないか?」
http://www.usability.gr.jp/alertbox/20080506_percent-text-read.html


 これは、ウェブのあり方を研究している海外の研究者のコラムの和訳だ。
ネットサーフィン中の操作をブラウザに記録するという調査によって、
いかにページの内容が読まれていないか、という事を示している。
このコラムのほかの記事も同じページに載っているんだけど、とても面白い。


 情報が増えまくって、自分から情報にアクセスするようになって、
もはや「限定要因が情報量」「律速段階が情報伝達速度」ということがなくなったと思う。
これによって、世界は死ぬほど変わるのではないかと妄想している。
そしてそのかわり、情報流通における限定要因は「受信者の脳の処理速度」となり、
それに伴って重要になるのが、選ぶ側(受信側)の選択基準であり、
それは「情報の見た目」と「発信者の権威」だと思う。


 当然だけど、同じ内容でも、読みやすく、分かりやすい、
「プレゼン方法」が優れた情報が選ばれる。
世界の情報はますます読みやすくなり、
wikipediaとかgoogleの検索結果とか、
もっとカラフルになったり、図が増えたり、ポップアップによる注釈が充実したり、
同じ記事でも、欲しい情報量に応じて、記事の階層が選べたりするようになるんじゃないだろうか。
そういう「情報の検索性」では表意文字の漢字って便利だなぁと思ったり。


 そうして「プレゼン競争」が過激化すると、
今度は情報の内容が「おまけ」で、プレゼン自体が「本体」みたいになってしまうんじゃないだろうか。
これは考えすぎかな。
まぁ、どちらにせよ、こういう「情報の見た目」が重要になることは間違いない。
もう、自分が情報を選んでいるのか、情報に自分が選ばれているのか、分からん。


 それから、情報が溢れると、どれが信頼できるか見分ける必要が起こって、
「発信者が信用できるかどうか」がますます重要になってくると思う。
本当は一つ一つの情報の信頼性を自分で吟味するべきなんだけど、
世界には消化すべき情報が多すぎて代謝速度が追いつかない。
発信者を信頼することで、鵜呑みにするしかない情報ほとんどだ。


 そうなると、社会的信頼度の低い発信者の情報は、
内容に価値が無くなり、プレゼン競争に走る。
対して、社会的信頼度が高い発信者の情報は、ますます価値が上がる。
「社会的信頼度」と言ってみたけど、自分でも良く分からん。
もはや新聞もテレビも、何にも信用できない。
僕が信用しているのはgoogleだけだ。
世界の将来は暗すぎる。


 こういう意味では、そのうち、ゴミ情報の溢れる「ウェブ」から独立して、
情報の内容の信頼性が保障された新しいネット世界が誕生するかもしれない。
論文の雑誌みたいに、査読され、受理されたものだけ載せることが許される世界。
けど、その信頼性を保障するのは国か、世界か。
もしかしたら、googleかもしれない。
・・・まぁ、たぶんこれも考えすぎ。
でも、こういう傾向が学問の世界にまで及びはじめたら、本格的に人類の衰退が始まると思う。


 しょうもない妄想おわり。
我ながら、プレゼン能力に欠ける文章を書いてしまった。ゴミ情報、発信。