ガーデニズム

 最近、1時前に眠くなって、8時までにスカっと目が覚める、
という日が続いていて、恐ろしく健康的だ。
来週の合宿に前半だけ参加するということで、
ここんところ、ちょくちょく部活に参加してるんだけど、
そのおかげで代謝リズムが適正に保たれているんかもしれん。


 昨日は疲れていて、ホンマに練習行きたくなかったんだけど、
朝布団の中で、「地震でも起きてぐちゃぐちゃになれば行かなくていいのにな〜」
みたいなん考えてたら、ホンマに地震起こって、
ビビって飛び起きて、結局行かざるをえない状況になってしまった。
いや〜、あれはビビった。
しかし、最近三回生のアホ二人で部活を汚染しているような気がしてならない。
立場をわきまえず目に余る老害っぷりを発揮しまくっている。すいません。

 
 今日はちょっと考えをまとめてみる。
最近、何かを悟ったらしく、恐ろしく精神が安定している。
そろそろ鬱来るかな〜と思いつつも、なかなか来なくてちょっと怖い。
安定なものほど崩れた時のダメージがでかい気がするので。


 この悟りの原因を考えてみた結果、
・全てが無意味、無価値の境地
・言語に対する見方が変わったこと
・自分嫌いをやめたこと
・大欲で小欲を制する、の境地
の4点に集約されると思う。
そもそも、言葉に対する見方が変わってしまったので、
もはや今までのように長々と妄想を書き連ねることが不可能なんだけど、
これだけだと意味不明なので、慎重に解説してみる。

  • 全てが無意味、無価値の境地

この考えによれば、大抵の鬱の原因である、
「あるものには意味があって、あるものには意味がない」
という境地に陥ってしまったとき、
「ただの自分の思い込みでした、すいません」ってなって解決する。
世界の全てのものは、平等に無意味で無価値。
他人の見方との比較はできないけど、少なくとも以前の僕の見方と比較して、
全てのものが最高にどうでもいい、意味の無いものに見える。
だけど絶望的になることはなく、「全てが平等に」無意味で、比較対象がないから、
もはや意味という概念があるかどうかも分からないという感じ。

  • 言語に対する見方が変わったこと

この思考をさらに推し進めると、言語すら無意味に見えてきた。
今まで、世界の全ては言語で説明できるし、
自分の思考過程も全て言語で成り立っていると思っていたんだけど、
それは言語を宗教的に信仰している自分の一つの見方に過ぎず、
結局、どの言葉も同様に無意味で無価値であり、
どんなに頑張っても、情報のプレゼンの手段でしかない。
だから、言葉じゃ本当は何も言えないし、逆に言葉で何でも言えるような気がする。
そして、なぜか良く分からないけど、
この不確実なコミュニケーション手段で、人を喜ばせたり、傷つけたりできるし、
それによって社会が駆動している。今世紀最大の謎だ。
こう考えるようになって、世界がどんどんクリアに見えて、やばい。
残念ながら、実は世界は言葉で説明できないものであふれているみたいだ。

  • 自分嫌いをやめたこと

最近自分が好きだ。
今までの僕は今と比較して恐ろしいほど自分を嫌っていたと思う。
今思うに、これは不幸でしかない。
世界の全ては無意味であるから、
世界の見え方は自分が産み出した先入観によって決定されるんだけど、
今まで、僕は自分から産み出される思考を懐疑的にみる傾向があった。
そしてその根本には、「突き詰めればより明晰なものが見えてくるはず」
という思い込みがあったはずだ。
だけど、自分から産み出されるものを突き詰めても、
それ以上のものはあるわけないし、あったと思っても、少し考えれば、
「結局それも自分から産み出されたものでした、すいません」ってなる。
結局、突き詰めても全部自分の思い込みなんなら、
好きに思い込ませてあげたらいいではないか、ということで、
「これは所詮思い込みだ」という境地に立ちつつも、
自分の下した決定を肯定してあげることにした。


  • 大欲で小欲を制する、の境地

自分が大好き・・・残念なことに、これは今までの僕が最も嫌っていた生き方だ。
お花畑回路。名づけてガーデニズム(gardenism)。
自分を肯定する境地は、恐ろしく幸せな境地なんだけど、
現状に満足してしまう、という、恐ろしい(と僕は考える)境地でもある。
僕の中には、向上心は絶対捨ててはいけない、という深い思い込みがあって、
これが自分嫌いを繰り返してきた自分にも通じているのだと思う。
成長したいという欲はもちたいけど、同時に現状の自分を肯定したい、
そんな無理難題を解決したのが、
到底実現不可能な、恥ずかしいくらいの大欲を抱くことで、
漠然とした向上心を維持するという境地だ。
言い換えれば、向上心を持ち続ける現状を肯定する、ということなのかもしれない。
実現できるかどうかが見えてきてしまうような小さな欲を目標とすると、
理想と現実を比較して自分を否定する結果になることは自分でよく知っている。
そんなしょうもない欲は、大欲を目標としているうちに、いつの間にか達成しているハズだ。
もちろんその時は、それに気付いて、しっかり喜ばなきゃ損だけど。


 まぁ、そもそも、大欲を抱けるのは自分を肯定できるからなんだろう。
要は思考が、「否定→小欲→否定」のHellループから、
「肯定→大欲→肯定」gardenループに変わったということらしい。
しかし、今までの経験から、やっぱり心が安定するのは怖い。崩されたときが。
早くこの庭園をめちゃくちゃに踏み荒らして焼き払うような鬱がこないかなぁ。