3年後に読み返したい

 引越しの準備がなかなか大変だ。
今日は、3年前に京都に持ってきてから一回も手をつけなかった
本や釣り道具が当時の姿で再発掘されて、
大学生活への夢いっぱいに入学したあの頃に戻った心地だった。
今僕がこんなコトになってるとも知らずに。


 そして、「こうしている間にもあの同級生は就活してるんだよなぁ〜」とか考えながら、
未来が急に不安になって、常時スリープモードのパソコンを叩き起こして、
google chromeを召喚し、アドレスバーに「ポスドク」とか「オーバードクター」とか、
高学歴ワーキングプア」とかぶちこんで、
すでに紫色ばっかりのリンク先の中から、青いリンク先を探して、
相変わらずの残念な記事を読んで、不安の感情を肯定してもらう。


 サイエンスに必要なのは、現実を冷静に受け入れる姿勢だと、最近思う。
新発見に一喜一憂するのでなく、それをすぐさま多様な視点から分析し、受け入れる姿勢。
もし、社会構造の変化を多様な視点から解釈し、
現実として冷静に受け入れる能力が「賢い」コトだとするなら、
いまの時代、本当に賢い人間はさっさと就職を決めてしまうに違いない。


 僕の意見では、このままだと現実の解釈能力に長けた(ここでいう)優秀な人間は、
どんどん学問の最先端から離れていってしまう気がする。
このまま、「好きでやってるのだから待遇悪くて当たり前」を続けていると、
最後まで学問の世界で生き残れるのは、
本当にそれが大、大、大好きで、それ以外何も見えませんってくらい熱中できる人だけになってしまう。
いつの時代だって学問の最先端に居る人達は、多かれ少なかれそういう傾向があるのだろうけど、
この先それが突き詰められると、自分のやっているコトを社会的視点から眺めて、応用できる、
包括的な視点を持った人間が生き残る余地がなくなってしまうと思う。
それは社会と学問とのつながりがますます疎遠になることであり、
ますます学問が社会的に隔離される結果を招くと僕は思う。


 僕は社会の役に立たない研究、他人に聞かれて意義を説明できない研究はしたくないと考えている。
そして自分の仕事を可能な限り社会に還元したいと思っている。
さらに、できれば早く安定した地で安定した収入を得て、安定した家庭を持ちたいとも思う。
「賢い人」にそれを話したら、
「学問は先に進みすぎたからそれは無理だ」とか「今の社会構造や制度を見れば無理なのは分かるだろ」
とか言われて、「社会に還元したいならさっさと就職しろ」って言われるだろう。
「夢を取るか、平凡を取るか」みたいなのを考え続けてきたけど、
平凡を取りつつ、夢を新たに設定することも可能な気がしてきた。


 次の下宿も、とりあえず3年は住むだろう。
3年後の今頃、俺は何を考えて生きているんだろう?
やっぱり引越しの準備しながら、3年前を懐かしんでるのかもしれん。
「今頃こんなことになってるとも知らずに」とか言いながら。