日曜の夕方

 夏の雲と空って最高にテンション上がる。
水平線に入道雲っていう景色が最高だ。
これにバーベキュー臭とガールの日焼け止めの匂いがあれば完璧。
海にドライブ行きてぇー。


 そんなさわやかな空を、
信楽の山々の後ろに眺めながら、
クソ暑いデスクで教科書読んでたら、哲学的妄想から抜け出せなくなって、
勉強が手に付かなくなった。
以下、読む必要なし。


 みんなあるものを信じて、一方であるものを疑って、それに基づいて行動している。
だけど、信じるもの、疑うもの、何を基準に選んでいるんだろう?
本に書いてあることも、医者が言うことも、
自分が勝手に思うことも、犯罪者が言うことも、全部同じ確率でウソかもしれないのに。 


 根拠も無く、一つのモノを信じて、他のモノを排他的に見る態度が限りなく滑稽に見える。
信じているものと疑っているものの違いを教えてほしい。
最近、まだ学説が混乱している分野の論文を読むようになって、余計そう感じるようになった。


 一方で、社会はそんな根拠の無い信用によって構成されているという現実が、
あまりにも残念で理解不能。それを理解不能な自分が残念でもある。
もっと考えれば理解できるかもしれないけど。


 そんな自分も、考えているうちに根拠の無い前提をベースにモノを捉えていたことが分かったりして、
その矛盾に気づかなかったことに対して激しい自己嫌悪を感じたりする(今)。
デカルトがどこまで世界を疑ったのかは分からないけど、
ホンマに世界を究極まで疑い尽くした「デカルト的態度」が存在するとすれば、
僕にはまだまだこれから疑うべきモノがたくさん見つかるだろう。


 全てを疑い尽くして、デカルト的態度に到達し、
「疑う」「信じる」という概念がなくなったとき、
初めてあらゆるものを平等に見ることができるんじゃないだろうか。
そこに到達したという自覚は永久に得られないかもしれない。
けど、世の中をできるだけ平等に見るために、その方向へ進む努力は必要だと思った。
・・・という結論で落ち着こうと思う。