やっぱりダーウィニズムの犬

 前の日記で、雇用の安定とダーウィニズムが云々ってのを書いて、
面白いと思ったので、もうちょっと色々考えてみた。
現時点での僕の思考回路では、
やはりこの先、ダーウィニズムとそれがもたらす「受け入れ症候群」的思想に
世界が染まっていくのではないかという結論になった。
かなり大胆な妄想。

 
 まず、年功序列やら終身雇用みたいなんを安定性とするなら、
その安定性は全て、社会が発展し続けることを前提に成り立っていると思う。
途中で規模が小さくなることがあれば、当然この安定性は保証できない。


 一方で、社会は確実に縮小している。
それは、インターネットにより、視野が広がる一方で、
世の中がコンパクトにまとめられていくことに原因があると思う。
たとえば、一つのネット通販店が、日本全国に配送をする一方で、
その店一つが何百もの個人商店と置き換わる。
町に一つあればよかったものが、国に一つあればいいようになる。
こんな感じで、「効率化の単位」みたいなんが、町ではなく、国や世界になっていく。


 そして、恐ろしいことに、この効率化には、
「企業-人間」間の効率化も含まれる。
社会が効率化すれば、当然、企業も効率の良い人選びをしなければ生きていけない。
すると企業は力を入れて、適材適所な人間を検索するようになる。
もちろん、検索範囲は国を超えたものになるだろう。
そうなると、町では誇れた自分の個性も、
世界単位の情報網から人間を検索する企業にとっては、
いくらでもいる、とりかえの効く人材でしかない、
ということもたくさん出てくると思う。


 もちろん、もし適材適所として採用されたとしても、
とりかえの効く人材であることには変わりない。
より優れた人材が現れれば、企業はいつでも自分を捨てて、その新人を採用するだろう。


 とにかく、死ぬまで競争。安心、安定した瞬間、負け。
これが、最も効率の良い社会のありかただと思う。
そしてこれから、そこに向かってムダを省く方向の時代が始まる。
実力主義の研究者の世界では、助教授ですら任期付きになりつつある。
優秀な人が優秀な地位に就けない今の仕組みが問題視されているからだ。
本当に、死ぬまで気が抜けない。
いずれ、会社もそうなるだろう。
死ぬまで努力し続ける人間以外は死ぬべき世界になる。

 
 こうして、社会の効率化が進めば、
いずれは人々もこの生物的な適者生存、ダーウィニズム
社会の流れであることを認め始めるだろう。たぶんね。
そして、ダーウィニズムが人々に浸透すれば、
「社会が一つの競争原理で成り立っている」という思想が定着する。
そうなると、みな、
「この疑いようの無い競争原理に自分を含め全てが組み込まれた結果、
いまの自分がこの地位にいるのだ」という感じで、
自分の地位を受け入れていくことになるだろう。


 これは、物事の原因を、自分でなく、ダーウィニズムに帰する、
新時代の思想の登場を意味していると思う。
全ての因果をダーウィニズムに帰することで、
「自分が行動している」という自我が無くなっていき、たとえ人を殺しても、
一体誰が悪いのか分からない、という世界もありうると思う。
 

 結局、ちょっと調子に乗りすぎた人間も、自然の偉大なルールに帰ってくる。
ダーウィンはホンマとんでもないものを発見「発明?」したと思う。


 そんな残念なこれからの世界を生き残るためには、
とにかく、できるだけ取り替えの効かない人間に成長すること、
そしてそんな自分を希求している場所を探すこと、これが大事だと思う。
資格とったり、良い大学に入って喜んでるのは、
同じ資格や大学の人間と交換可能なことを喜んでるってだけだ。
結局、何をとるか、どこへ入るか、ではなく、
何をするか、どう考えるか、だと思う。
交換不可能な自分の個性は何か、考え続けたい。