世界はすばらしい
理系的オタク的人間の会話能力に関する考察。
一言でまとめれば、相手の会話内容に自分と違う見解が表れたときに、
それを指摘せずにはいられない、というのが特徴なんじゃないだろうか。
他愛もない日常会話で、言葉の定義を確かめたり、議論の前提を確認したり、
必要ない情報を付け加えたり、そんなやつ。理学部によくいるよね。
ていうかまさに俺。あ〜きめぇ。
最近気づいた。求められること以上をしゃべる必要は全く無いんだよね。
相手の会話聞きながら、「絶対ちげぇよハゲ」といくら思ったとしても、
また、どれだけ瞬時にそれを否定するための根拠を用意できたとしても、
その会話の目的が問題解決でないのであれば、議論欲を殺して、
その場に合った適当な返しをすること。
これがその場面で求められていることで、
(今まで気づかなかったけど、)みんなが当たり前のようにやっていることなのだと思う。
例えば、「○○ダイエット」みたいなんは僕からすれば、見てて馬鹿らしい。
本当に痩せる気があるのなら黙って早起きして走ってるだろ、っていつも思う。
だけど、その「○○ダイエット」が他愛の無い会話のテーマとなっていたらどうするか。
僕のすべき事は、見下して会話に参加しないことでも、論理を持ち出して会話をぶち壊しにすることでもない。
「あ〜それ□□らしいね〜」とかいいつつ、その馬鹿な会話に参加するべきなのだ。
そして、その会話に参加している多くの人間は、
「○○ダイエット」は馬鹿だという前提で参加していることを意識しなければならない。
日常会話は、まさに建前の応酬だ。
そこに本音で突っ込むのは、まさに特攻で、自分も会話もぶち壊しにする無生産な行動でしかない。
このように、世の中には問題解決が目的ではない会話もたくさんある。
時にしてそれは、他人と時間や空間を共有するための手段として、
中身が無いことが前提となることさえある。
議論は楽しい。この上なく楽しい。
しかし、議論が必要とされる場面は別にある。議論欲はそこで好きなだけぶちまけたらいい。
このことにようやく気づいた今、自分を変えるのが楽しくてしょうがない。
ところで、同じ学生部屋の先輩が博士過程研究員に内定した。すごい。かっこいい。
この世界でも努力が報われることがあるのか、と思って、
本人でもないのに、決まった瞬間、鳥肌が立ち、涙が出そうになった。世界はすばらしい。