脳みそデュアルコア化作戦

 成人式以来にスーツを着た。意外にスーツは似合うかもしれない。それで、京都駅を一周した。

楽しい。楽しい気分になったので、家で晩飯の用意をしていたのだけれど、ついラーメンを食いに行ってしまった。3年間、京都で遊びまくったおかげで、京都に来るといつも楽しい気分になる。将来、地球の裏側で奴隷みたいな労働を強いられることになったとしても、京都に戻ってきたら、楽しい気分になれると思う。これからも京都ではなるべく嫌な思い出を作らないようにしなければならない。ちなみに、明日も京都で遊べる。やったー。


 ところで、今日スーツだったんは、奨学金の面接が京都駅付近であったからなんだけど、「面接」という形式のものが生まれて初めてだったので(院試は遊びみたいなもんだったし、バイトの面接も私服だったし)、実際に始まると死ぬほど緊張して、当たり前の敬語も使えず、話すのに脳のCPUを100%使ってしまっている感じで、終わったらなんか30分の面接時間をタイムスリップしてしまったみたいな感覚になった。他人に自分の考えを的確に伝えるためには、話している自分を客観的に見る自分が存在しなければならないと思った。つまり、話すことに脳の100%を使うのではなく、話すのとは別のトコで、「相手が今どういう回答を求めているのか」「今の自分の話は、話全体の中のどの部分なのか」「相手は自分の話を興味を持って聞いているか」「余計なことを喋っていないか」などといったメタなことを、常に解析できる脳にならなければならないと思った。そして、これを「脳みそデュアルコア化作戦」と名づけて、当面の目標にすることにした。


 ただ一つ、とても気がかりなことがある。それは、このデュアルコア化を、自分の考えを相手に上手く伝える手段としてだけではなく、他人と上手く付き合っていくための手段としても、推奨していくべきなのかどうか、ということだ。要するに、例えば、目の前に落ち込んでいる人間がいるんだけど、自分はその人間の悩みにどうしても共感できない、という場合、脳をデュアルコア化して、「これは話を聞いてあげるフェーズだ」というメタな分析をして、全く思ってもいないことに共感しているフリをしてでも、相手の話を聞いてあげるべきなのか、そんなことして、相手にその「フリ」がバレたらどうするのか、そんな「フリ」をする自分を許す強さが自分にあるのか、そのあたりのことが、よくまとまってなくて、悩ましい。なんにせよ、今の自分の生活に圧倒的に足りないのは、他人との会話だ。ひたすら、人間と会話したい。そんで、「フリ」がどれくらい役に立つもので、どれくらい苦しいものなのか、自分なりの見解と使用基準を一度得ておきたい。