2000年前に同じ思想の奴がいたとは

 最近、荘子の「斉物論」というのがあまりにも僕の思想に似ていることを発見した。
 世の中のものは本来全て平等に無意味で無価値なんだけど、人間が勝手に分類することで意味と価値が発生し、それが人間を苦しめたり喜ばせたりする。そしてこの、平等、無意味、無価値の境地に到達したとき、人生は意味のない作業になる。喜びも悲しみも鬱も一切ない、全ての物事に平等な態度で接することができる状態になる。僕はなるべく先入観を取り除く努力をすることで、必要があればいつでも斉物論的立場から物事を再検討できるような思考回路を持ちたいと思っている。


 一方で、この状態に到達できるのは、心が落ち着いていて、先入観を取り除くための時間しっかりがあるとき限定だ。だから、現実ではそこまでの状態に到達する時間を確保するのは難しい。この、先入観を取り除くのに必要なタイムラグが、全ての人間に喜怒哀楽を持たせているものの正体であると僕は信じている。


 さて、最近取り除いた一番大きな先入観が、「常識」だ。僕がここで言う常識とは、中学−高校時代、有利に学校生活を送るのに必要な、実態の無い存在のことだ。僕は中学−高校時代に散々、常識を見方につけ(た気になって)、他人を攻撃しまくってきた。今思えば、クズだ。だけど、そのときはそれで上手くやっていけた。学校とは不思議な世界だ。

 今は、常識というのは、それぞれの人間関係ごとに、一から構築しなければならないモノなのではないかと考えている。つまり、常識はコミュニティの数だけ存在し、あるコミュニティの常識が、他のコミュニティで全く適用できないものであっても問題ない。というか、それが往々にして普通だと思う。

 実態の無い「常識」を盾にし、自尊心を満たすために攻撃したり、利用したりしてしまったこれまでに関わった全ての人間に謝罪したい。もしかすると、気付かぬうちに、謝るくらいじゃ済まないダメージを負わせてしまったのかもしれない。
 自分が人を傷つけるということだけは、どうしても斉物論に還元できないほど辛い。