クリティカルヒット

 久々にクリティカルヒット

詭弁論理学 (中公新書 (448))

詭弁論理学 (中公新書 (448))

 ここで言う「クリティカルヒット」とは、本の読むべき時期と読むべき内容が完全にマッチしたときのこと。
 論説文に限らず、教科書だろうが、文学作品だろうが、映画だろうが、「仕入れるべき時期に仕入れた情報」の印象というのは、一生忘れることのできないものであると思う。だから、全く興味を持てなかった本を後に読み返してみると凄く印象に残ったり、インパクトがあったはずの本を読み返したら「何を当たり前のことを今更」という感想しか出てこなかったりというのも良くある。そもそも、本というものは、(金儲けのために、本を買わせる目的で書く文章を除いて)その時点での筆者(作者)の考えが渾身の思いで込められたものであるから、少なくともその筆者にとってはすばらしい作品であるハズだ。だから、その筆者と同じ思考段階に達することさえできれば、誰にとっても面白いものになるハズのものであると思う。言い換えれば、「誰にとってもつまらない本」などあるハズが無いということだ。さらに言えば、「自分にとってつまらない本」というのも存在しない。あるのは、「『今の』自分にとってつまらない本」だけだ。

 ・・・という思想になると、なかなか本を読んだ感想を書くことができなくなってしまった。というのも、結局本が面白いかどうかはその人が「クリティカルヒット」するかどうかで、ある本に関して僕が、「いかにクリティカルヒットしたか(しなかったか)」を延々と書いたところで、他人にとって、その情報には何の意味も無いであろう気がしてきたからだ。自分が面白いと思うモノは、99%の人間にとってはどうでもいいものだというのは、去年散々思い知らされたことだ。反対に考えて、他人の書評やランキングほど当てにならないものも無いと感じる。結局、本が面白かどうかは、「その本を読むべき時期にあるかどうか」でしかないのだと思う。

 その思いを決定的にしたのが、これ。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 なんか、「灯台兄弟で一番読まれた!」みたいな帯が巻いてあったんで、「これは」と思ってろくに中身を確認せずに買ったけど、今の僕には絶望的に合わなかった。分かりづらい例えを多用する、当たり前のことしか言っていない、ネット時代以前の古い本という感想で、始まって20ページくらいで「速読の練習本」判定が出てしまった。だけど、正直を言うと、2年前にこの本に出会っていれば、「クリティカルヒット」したろうな、と思う。要は、売れているかどうか、より、読むべき時期かどうか、なのだと思う。


 さて、本が「クリティカルヒットするかどうか」がどうやって決まるか、について考えたい。
僕はこれを考えるとき、「情報」というものを次の3つに分類すると上手く説明できるのではないかと考えている。

・自分で言葉にできる情報
・自分で言葉にはできないけど、自分の経験に結び付けられる情報
・言葉にもなっていないし、自分の経験にも結びつかない情報

例えば、一番目の「自分で言葉にできる情報」が書かれている本は「何を当たり前なことを今更」という感想になってしまう。極端な例を挙げると、小学校の算数の教科書がそう。
三番目の「言葉にもなっていないし、自分の経験にも結びつかない情報」が書かれている本は、「何言ってんだわかんねぇよハゲ」という感想になる。例えば、分野外の専門書とか。
で、二番目の「自分で言葉にはできないけど、自分の経験に結び付けられる情報」が書かれた本、言い換えれば、「モヤモヤしてたものを言語化してくれた本」こそが、クリティカルヒットする本であると思う。例えば、教科書で言えば、持っている知識を使ってさらに難解な理論を導く橋渡しをする本であり、新書で言えば、なんとなく感じていたことを論理的に肯定してくれる本であり、小説で言えば、自分の同じ境遇の登場人物が出てくる本だ。要は、「自分の経験を想起」し、かつ、言葉に出来なかったものを言葉にしてくれるくれる本だ。
 結論を言えば、自分の頭の中に「経験があるのに言葉に出来ない領域」があって、その狭いレンジを狙い撃ちにしてくる本こそが、「クリティカル」ヒットする本の正体であり、そのレンジが日々変わっていくことが、そういう本が時期とともに変遷していく理由であるということだ。


 ところでこの「経験想起」、実はプレゼン能力の核になるものではないかと最近感じ始めている。例えば、この文章、「情報は三種類に分けられる・・・」から書き始めていたのだけれど、それだと経験想起が無いから、「本は読むべき時期がある」という経験想起できそうな書き出しに変更した。こっちの方が圧倒的に読む気になるのではないかと思う。(自分の書いた文章の構造に関して言及すると、どうしても上から目線になってしまうけど、ここまでこれを読んでくれている人は、ありがたいと思ってます)まぁ、長くなるので、この件についてはまたいつか語りたい。


 さて、上記の理由で、「詭弁論理学」がいかにクリティカルヒットしたかは書かずにおこうと思う。「どういう本か」ということだけ書いておくと、数学者の筆者が、詭弁、強弁とは何か、それをどう使い、どう対処するか、を身近な実例を挙げながら、論理的に解説した本だ。


 しかし、いかにも「タイトルで買わせる」安っぽい内容の新書が溢れる中で、「中公新書」は「いかにもつまらなさそうなタイトル」の、内容で勝負の本が多いのは好感がもてる。もちろん、「タイトルで買わせる」本の中にも「クリティカルヒット」は眠っているわけで、それを掘り起こすのがまた面白いんだけど。新書売り場ははおもしろい。



追記:
「書評は無意味」的な書き方をしたけど、それはその本を読む前の話であって、すでにその本を読んだ人間が、「この本を読んだ他の人間はどう思っているのだろう」という興味からその本の書評を読むというのは、意味のあることのような気がしてきたし、僕もやることだった。このことについては、また考えてみようと思う。