背教者ユリアヌス

 これまで「論理」を身につけることに躍起になっていたけど、最近少しずつ「論理」自体を客観的に見られるようになってきて、思考の転換期を迎えつつある気がする。一生付き合うことになると思っていた論理教だけど、背教するかも。


 結局、世の中は、どんな手段を使おうが、他人を納得させたもの勝ちなのではないか。論理力やプレゼン能力は、世界を美しく記述するために必要なモノなどではなく、他人を納得させるために必要な道具でしかないのではないか。そして、世の中は非論理的なモノと人間で溢れていて、論理よりも効果的に他人を納得させる方法がたくさんあるのではないか。


「いかにして分かりやすくするか」と「いかにして分からせるか」は紙一重だ。頑張って論理を操ろうとしている時の論理は、単純に物事を記述するための清潔な論理だけど、論理というものを外から見れるようになり、使いこなすようになった瞬間、それは他人を騙すための道具になってしまう。
 もうこの世から「キレイなモノ」が完全に無くなってしまった気分だ。あぁー。