一度考えてしまうと、もう元には戻れない

 人間は一ヶ月もあればわりと根本から変わることが証明された。今や、一月前の自分には到底想像できなかった思想にとりつかれている。何が起こったのか、考えるついでにまとめてみた。


1.論理は人をだます道具
 論理はものを「分かりやすく」するものではなく、他人にものを「分からせる」ための道具だ。言い換えれば、人を騙す道具だ。なぜなら、論理を使って分かりさすさを追究していくと、どこかで聞き手の経験に結びつくように言葉を使い分けなければならないポイントが出てくるからだ。たとえば、進化論について、生物系大学生、文系大学生、そのへんのおっさん、進化論否定者、それぞれに対して説明しようと思うと、ある程度は共通の説明が使えたとしても、どこかでそれぞれの聞き手の経験や知識の違いを考慮した言い回しに分岐させなければ、相手を十分に納得させることはできないと思う。
 相手によって言うことを変える、この時点で、僕にとっての論理は、「物事を平等な視点から記述する方法」から「人間を騙すための道具」へと成り下がった。特定の聞き手の存在を意識した時点で、もはやそれは、数学のように万人が納得せざるを得ない「解答」などではなく、汚い汚い、他人を納得させるという、言外の目的を伴った(デュアルコア感満載の)嘘でしかない。そして残念なことに、世に溢れているほぼ全ての、論理という形式を伴った情報(つまり、文章化できる情報)は、聞き手の存在を意識して発信されている。雑誌、テレビ、新聞、本、ネット、講義での先生のお話、科学論文に至るまで、全て。発信している側の自覚があるないに関わらず。これは残念すぎる事実だ。これをもって、僕は論理を高潔なものと見るのをやめて、人間を騙すための不潔なものとして向き合い、取り扱うことに決めた。

 さて、残念ながら、誠に残念ながら、不潔なこの世界は、現実だ。これは、受け入れるしかない。もっと早くこのことに気が付いていれば、数学者、プログラマー、芸術家、料理人、スポーツ選手といった、不潔な論理から比較的距離を置くことができる世界を目指していただろう。だけど、今の僕がこの現実を受け入れることを拒否する方法は、引きこもりになること以外にない。これは、これまでお世話になったいろいろな人をがっかりさせるので、できない。しょうがないので、受け入れるしかない。


2.一番汚いのは科学
 さて、そう考えていくと、「本当は不潔なのに高潔ぶっている」科学(数学を除く)こそがもっとも汚い存在なのではないかという気がしてきた。今や科学は金持ちの趣味ではなく、世間からお金をもらって行う、「経済の犬」に過ぎない。つまり、お金が無ければなにもできない。そういう視点を伴って、卒業研究で曲がりなりにも科学の最先端に触れた経験から、僕が純粋に感じるのは、「最先端の人だって実は何も分かっていないのに、お互いに中身の無い(しかも、(自覚はあるなしにしろ)読み手を洗脳することに特化した「論理」で華麗に武装した)学説をぶつけ合うことで、研究費を争っているだけなのではないか」ということだ。というか、「そうしないと」研究するお金をとってこれない時代になりつつあるのではないか、ということだ。少し前に温暖化の件で一悶着あったけど、科学者の生存競争が激しくなってくると、ああいうボロが出る機会は増してくるのではないかという気がする。
 もちろん、科学が実際に人間の生活を豊かにした例を挙げられると、それには納得するし、反論できない。だけど、アポロが月に行ったような時代と比べると、科学の、「経済の犬」化は確実に進行しているのではないかと感じる。こんなことを考えていると、「オフィシャルに」人間を騙しているマスコミ的な業界のほうが、科学に比べるとよっぽど健全であるような気もしてくる。


3.結局みんな感情の犬
 さて、論理で騙された人間を実際に動かすのは、感情だ。つまり、論理のターゲットは相手の感情であり、最終的に人間が判断の基準とするものは、感情だということだ。(最近、「感情」という言葉は、「非論理的なもの全てを指す」便利な言葉であることに気が付いた。むしろ、それが「感情」という語の定義なのかもしれない。)人間が感情に左右されるとするならば、考えて行動することにそこまで意義を感じなくなってくる。実際、現実世界では、論理は驚くほど弱い。感情的な対立を前に、論理が出る幕は無い。物理的に手を出され、状況が変わった時点で、思考世界で構築した論理は、簡単に崩れ落ちる。世の中を支配し、実際に人間を動かしているのは、論理でなく、感情だった。
 


4.「考えている⇔考えてない」軸の崩壊
 「みんなもっと物を考えて自分の意見を持たないと、日本やばいよ」みたいな言説がある。僕も今までそう思っていた。だけど結局、個々がどれだけ考えても、世界は感情によって動かされる。考えたつもりでいる人だって、案外何も分かっていなくて、無意識(あるいは意図的)に誰かを騙し、また、誰かに騙されている。そして、重要な決断は、感情で行っている。そう考えると、急激に「考えても考えなくても一緒なのではないか」という考えになってきた。
 さて、僕自身は、考えることが「好き」だからこれからも自分なりに考えまくりたいと思う。だけど、考えることの無意味さが露呈したいま、何も考えてない(っぽくみえる)人を批判することは二度としないようにしようと思う。感情に左右されているという決定的な点で、その人間と僕の間には何の差異も無いからだ。
 世の中にはどうも、考えているほうが上、考えてないほうが下、という「軸」があって、人よりメタなことを語ってると「偉そう」と思われたり、人よりメタなことに言及して「勝った」気になったりできるみたいだ。もう、この軸自体を捨て去ろうと思う。この軸はおそらく、考えているほうが考えてないほうを騙すことができるという一方向性によって生み出されたものなのだと思う。だけど、現実世界では詐欺なんかの物質的被害がでた場合、法律が守ってくれるし、そのほかの多くの場合、そもそも騙されたほうに騙された自覚がない。そしてやっぱり、結局どちらも感情の犬なんだから、そんな一方向性などどうでもいい。この軸は何の意味も持たない。


5.これから
 結局みんななにも分かっていないし、みんな感情に左右されているだけ。だから、考える/考えないに上/下は無い。
僕は考えるのが好きだ。だけどそれは趣味だ。別に他人よりメタなことを語って「上」に立った気分に浸りたいからではないし、この世の真理に到達したいからでもない。同様に、自分よりも考えている(っぽい)人間が現れても、そのこと自体に意味が存在するとは思わないし、自分よりも考えてない(っぽい)人間が現れても、もはや別に優越感を感じたりしない(正直、これまでは感じていたこともありました)。
 そして、今は「思考では到達できない世界」の存在を認めつつある。言葉にできないというのは辛いことだけれど、よく考えてみれば世界には、上手いもん食ったときの喜びとか、海を見たときの安心感とか、音楽聴いたときの開放感とか、分析して言葉にできるとは思えないものが意外にありふれている。
 それからもう一つ、一度考えてしまったことは、もう忘れることができないということも自覚するようになった。一度世の中が無意味に見えると、純粋に世の中に意味を見出すことができなくなるし、一度論理の不潔さを知ってしまうと、もう論理に夢中になることはできない。この不可逆性を、これからもっと意識しなければならないと思う。あえて考えない姿勢も必要かもしれない。


 まー、一言で言えば、「世の中が無意味すぎて、考えるということがそもそも無意味であった」というお話です。相対主義と言われればそれまで、だけど、僕にとっての世界の真の姿は、自己矛盾するまで考えた相対主義的状態であると信じている。