インターネットと思考放棄

 インターネットの弊害の一つに、「自分で考えたこととネットで見つけた情報の区別がつかなくなる」というのがある。
自分の考えだと思っていたもののうち、ネット上で見つけた他人の考えがどれだけあるのかを想像してみると、恐ろしい気分になる。さらに、その元をたどっていけば、どこかの誰かのたった一言によって自分の考えのかなり根本的な部分が決定付けられていることが分かったりして、背筋が凍る。
 本当に自分で生み出した考えは、自分のものなのだから、その根本からほぼ完璧に理解できているといっていい。だけど、輸入しただけの他人の考えというのは、大抵の場合、理解できた気になっているだけだ。こういう中途半端な理解の考えに関しては、たとえば、具体例を挙げたり、批判に対する反論を準備できなかったりする。しかもその考えが、論理的に整然としていればいるほど、その考えが凄い気がして、その勘違い度は大きくなってしまう。何が自分で考えたもので、何が他人が考えたものなのか、区別する必要がある。


 それならば、自分で生み出した考えなら全て安全かというと、そうでもない。なぜならば、考える途中で、ネット上で自分と同じ考え方の人間を発見してしまうと、その時点で、その考えが完成されたと勘違いしてしまい、最後まで自力で考え抜くということをしなくなるからだ。
 いまや、googleでかなり抽象的な言葉を入れても思い通りの結果が出てくるようになっている。そして、大抵そういう言葉で検索すると、「Yahoo知恵袋」的な質問サイトや、難しいことを語っているブログが上位に来て、そこで自分と同じ考えの人間が存在することを確認することができる。これは凄まじく危険だ。なぜなら、自分の考えていることで検索すれば、検索結果に自分の考えと同じ考えが表示されるのは当たり前すぎることだからだ。もし、自分の考えと反対の考えで検索すれば、やはり反対の考えがたくさん表示されるに決まっている。
 考える過程というのは、孤独だ。凄まじく孤独だ。だから、途中で仲間の存在が分かると、一気に安心してしまい、それで思考が完了したかのような錯覚に陥ることがある。だけど、このようにして得られた考えは、最後まで自分で考え抜いたものではないから、言うなれば、「詰めが甘い」。本来ならば、反対の考えを吟味してみたりして、より自分の考えを洗練するべき段階を、「同じ考えの人がいたから」という理由で、放棄してしまっているからだ。


 インターネットは便利だけど、恐ろしい。自覚なしに使っていると、あっという間に「いろいろ理解した気になっている勘違い人間」になってしまう。ちなみにアピールしておくと、この意見は、僕のオリジナルだ。だから、鵜呑みにしてはいけない。