自己矛盾という出発点

 目が覚めて布団の中で考えたことが凄すぎて、外は雨だし寒いし、うじうじと布団の中で考えていたら、昼過ぎになってた。もういいかと思って今日は休んだ。昨日と同じ一日だし、同じ部屋にいるはずなのに、頭の中は全然違って、自分が別人みたいだった。外では60億を超える人間がいつも通り社会活動を繰り広げている一方で、カーテン閉めた部屋で一人でもの凄い思想宇宙を展開してた。今日は完全に自分が世界の中心だった。


 何を考えていたかというと、「自分は世の中を一通り疑い尽くしたのではないか」ということだ。懐疑に到着点があるとは思っていなかった。世界は死ぬまで疑い続けるものだと思っていたからだ。
 たしかに「疑う物事の数」で見れば、疑えるものがこの世から尽きるないだろう。だけど、「疑いの深さ」に関しては、「これ以上疑うと、自分の思想的立場が維持できない」という段階に差し掛かっていると感じる。分類するならば、いわゆる「相対主義の自己矛盾」や「虚無主義」というやつなのだと思う。そしてこうなると、何も考えることができなくなる。なぜならば、考える前にまず、その考えの根拠となる自分の立場を疑わずにはいられないからだ。レッテルを剥して回るあまり、自分で自分に貼っていたやつも間違って剥してしまいました的な。
 やっかいなことは、「一度剥したあとを見てしまうと、二度と剥す前の見た目を想像できない」ということだ。だから、もう僕は、昨日までの考え方に戻ることはできない。一生この自己矛盾の存在に悩まされるしかない。これをもって、僕は区切りをつける意味で、「世の中を一通り疑った」判定を出した。これが、丸裸にされた自分に貼りなおした最初のレッテルだ。



 さて、次に考えるべきは、これからどうすべきかということだ。何度も自己矛盾による思考停止に悩まされながらも、まず僕が考えたのは、「完璧主義×孤独=今の病的思想」なのではないかということだ。
 まず、完璧主義。自分で自分を完璧主義かどうか判断する術はないのだけれど、「分かるまで考える」ということに関しては、人よりも執念深いのではないかというのは、ガキの頃からなんとなく思っていたことなので、まずはこれを2枚目のレッテルにすることにして、考えてみた。が、考えてみたところ、これに関しては、現時点ではどうしても治しようがないという結論に落ち着いた。目の前に疑問があるのに、それを追究せずに放っておく、というのは、今の僕にはどうしても想像できなかった。
 つぎに、孤独について。僕が孤独をここで挙げたのは、「この世の多くの人は、人間付き合いに忙しすぎて物事を深く考えるヒマが無いから虚無に苦しまなくて済むのではないか」と考えたからだ。今の僕はあまりに孤独すぎる。挨拶以外では口を開かずに暮らす日のほうが多いのではないかという状況だ。そして、完璧主義と違って、孤独は自分の行動によってある程度改善することが出来る。だからとりあえず僕が目指すべきは、人付き合いを増やして、一つ一つを深く疑うヒマを無くすということだと考えた。
 

 まずは人間と関わろう。考える時間を減らそう。もう、これ以上一人で疑っても何も無い。というか、自分がいなくなるので疑えない。今の僕にとって、余分な時間は無駄な罪悪感と苦悩を生み出すだけだ。とりあえず茶番でもなんでもいいから、何かを信じる方向に行動しよう。


 結局、

完璧に分かってないものを分かっていることにし、完璧な根拠が無いものを信じていることにし、それに罪悪感や疑問を感じるヒマもないくらい忙しい人たちが、お互いに騙し騙されあっている

というのが社会の正常な状態なのだろう。受け入れよう。騙されよう。そんでこれからも分かったふりをして偉そうな文章を書き続けよう。