メタメタです

 卒論というのはもっと焦らなければならないものなのかもしれない。あとちょうど一ヶ月。意外に時間が無いかもしれない。
で、まぁ、朝から晩まで卒論のことを考えていると、いろいろ余計なことも考えちゃう。


1.図に出来ぬものは論文にできぬ
 論文の論理構造は最初から最後まで一本道でなければいけない。一つの論文で言えることは最高で一つだからだ。その目的へ向かって一直線へ論理を運ぶ目的以外の言葉は全て取り除かなければならない。
 一本道の論理は、白い紙に単語と矢印を交互に繰り返して書くことで可視化できる。思っていることをこの形式で記述することができないときは、まとめ方が足りないか、余計な情報が混ざっている。だから、まず文章を書く前に、この図が書けるかどうかを検討しなければならない。書きながら考えていくスタイルではうまくいかない。頭の中がまとまりきってないから、どこかで途中で論理の道が途切れたり別れたりしてしまう。


2.メタ思考は現実逃避
 メタ思考、つまり「これはどういうことか」と一段上から考えてしまう癖が止まらない。文章の構造自体を眺めている時間とか、科学哲学的なことを考えている時間が多くて、なかなか論文の本体が書き進まない。英語で書いているので、そもそも書くこと自体に凄く脳のリソースを割かなければならないし、最近発症しした懐疑症候群のせいで、科学自体をすごく胡散臭い目でみてしまって、一つ一つの言葉の蓋然性が何によってどれくらい支持されているのかみたいなのを延々と考えてしまう。
 悪い言い方をすれば、メタ思考は「論理や言葉に頼らなければ自分の行動や発言に自信が持てないしょうもない人間」がするものだと思う。こういう人間は、現実次元で起こっている具体的な事象を直視せずに、メタ次元に逃げ込み、現実に解説をつけて安心している。なによりも害悪なのは、メタ思考が具体例への言及を極力避けることによって、現実的な問題の解決がちっとも進まないということだ。メタは突き詰めれば、いずれは究極の終着点、相対主義に到達する。相対主義は誰にも否定できないけど、何も主張できない立場だ。否定を恐れてメタの梯子を上り、ここへ逃げるのは簡単だ。一方で現実では、反対意見が存在しうる意見からしか生産的な議論は生まれない。つまり、どこかに穴を残した状態でも、自分の意見をよしとして発信しなければならないということだ。
 これから僕がすべきことは、メタに現実逃避しようとする脳を押さえ付けて、現実次元で反証可能性と戦うことだ。反対に、メタぶった難しいことを言っている人には具体例を挙げるように質問してあげることだ。それから、こんなメタのメタ思考してるヒマがあったら卒論の作業をしなくてはならないという現実に向き合うことだ。