東京いってきた

 学会とかなんとかで東京に行ってた。18きっぷ。帰りは中央線。山がきれいだった。

電車旅は楽しい。

 
 学会に出て思ったこと。もちろん、専門的なことで学ぶこともたくさんあったのだけれど、どうも今の僕にとっては「学問とは何か」みたいな視点で感じたことの方が多かった。色々感想はあるのだけれど、一番大きな発見を挙げるとすれば、「能ある鷹は爪を隠す」理由が分かったということだ。これまで僕は、どのような理由があってわざわざ爪を隠さなければならないのか、どうしても理解できなかった。能あるなら出せばいいのに、素直じゃねぇな、と思っていた。今回学会で色んな人を観察して、爪を隠すのにはちゃんと理由があって、しかも2つの場合があるのだと気が付いた。


a)爪を隠しておくことで、相手の油断している状態を観察できる
 本当に能がある人というのはしっかり相手を観察していると思う。まず初めに、相手がどういう考えで、何を知っていて、何を知らないか、今どういう目的で自分と話しているのか、みたいなのをしっかり観察することで、その後の会話の主導権を握ることができるからだ。これは、能のある人間の義務でもあると思う。鷹が初めから爪を出していると、けん制合戦になってしまい、お互い本当に話したいことが話せなくなってしまう可能性があるからだ。学会は能ある尊敬すべき人間でいっぱいで、僕も何度か油断して、観察されてしまった。賢い人主導の議論はサクサク進んでおもしろい。
一方で、僕には能が無いようにしか見えない人間もいた。(偉そうなことを垂れる前に一応言っておくと、僕は基本的にはこの世には尊敬が足りていないし、凄い人は素直に尊敬すべきだと思っている。


b)実は、隠しているように思われた爪は無かった
 僕はかなり理想主義的で、すぐ抽象的な議論に逃げてしまう癖があるといつも反省しているのだけれど、それをさらに超えたレベルで、具体例に踏み込まず理論や理想ばかり語っている人間がたくさんいた。具体例を挙げず、現実的な問題から離れた抽象的で空虚な学説を戦わせるのは学問ではないし、そういうのが真面目な学問への信頼まで下げていると僕は思う。なんで具体例を挙げないんだろう。なんで実験で確かめないんだろう。こういうのは説明だけ聞くとすごく最もらしくて、爪を出したら凄そうに思ってしまうけど、実際は爪なんてないのだと思う。こういうのはとにかくはやく滅んでほしい。
 それから、多くの大学の先生(とくに教授クラス)は学生よりも「最新のこと」に関しては知らないみたいだ。教員は研究外の雑用が多すぎて論文を読む時間がないからしょうがないのだと先輩が言っていた。研究したくてバカみたいな競争を勝ち抜いて教授になってみたら、雑用で研究できないとか、頭脳の無駄遣いとしか言いようが無い。それでいて、「大学の先生」という肩書きによって、実際には無い爪が隠されているように見えてしまう。この仕組みは色々と間違っていると思う。



 (b)みたいな例が結構多く見られたのは意外だった。凄そうだけど、じっくり観察したら凄くない人間はたくさんいる気がしてきた。みんなはったりが上手だなぁ。まぁ僕が余計なものまで疑いすぎていることが原因の一つではあると思うけど。


 にしても、案外、大人の世界はいい加減だ。いい加減いい加減。僕はこれまで厳密に生き過ぎた。


 僕は高校生までの学校生活で教わった「あるべき姿」や「ルール」みたいなのを守ることに関しては、伝説的なくらい忠実だった。言われたとおりに勉強して、言われたとおりの「おりこうさん」になって、そうでない自分を発見したら、徹底的に矯正した。まさに大人の犬だった。で、最近見えてきた「大人の世界」は、あきれるくらい偽モノと嘘つきまみれで、「ルール」や「あるべき姿」はないわ、「おりこうさん」は利用されるわで、めちゃくちゃだ。大人って本当に糞ろくでもない。糞野郎ばっかり。もうあいつらの言うことは信じない。絶対信じねー。懐疑主義万歳。経験主義最高。もう騙されない。もう自分しか信じない。
 学校は「絶対してはいけないこと」だけ教えてりゃいいんだ。「人間こうあるべし」みたいなのを素直だった僕に植え込んだ道徳教育を激しく恨む。あんなの現実に合っていないし、「使いやすい素直な人間」を量産する制度だったのではないかとすら思えてくる。裏切られたわ。何よりも一番糞ろくでもないのは、僕もその糞ろくでもない大人の一員になりつつあるということだ。さっさと隕石でも落ちて人類滅んでくれという感じ。
 まぁ、ルールの無い世界もそれはそれで適応できれば面白そうだし、普段糞にまみれてるからこそ、素直だったり信じたりすることが余計キレイに見えるのだろうけれど。