かわいそうな懐疑主義者
懐疑に目覚めてから情報の受け取りかたが変わった。
- 目に入る情報は、「情報として生き残っている」時点で事実とはかけ離れたモノになっている
- 出典または調査法がないものは情報源の権威に関わらず疑う
- 情報の価値は、情報の内容自体にあるのではなく、情報を受け取ることで考えさせられる内容にある
1.これだけ情報が氾濫する世界では、生の情報が生き残っていることはほとんど無い。「生き残ることに特化した情報」だけが生き残っている。いわゆるミーム。特にネット上では、大げさだったり、インパクトがあったり、人気者が紹介してたりする情報が選択されて複製される機会が多いから、それが広まって自分の目に届く頃には、現実とはかけ離れたものになっている場合がある。だから、ネットと現実は合わない。ネット上で人が集まるような場所ではこういう傾向が高いので、特に疑ってかかるべき。
2.この件に関しては、この本を読めば早いと思う。
「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)
- 作者: 谷岡一郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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出典や調査法が明記されてない情報は、たとえ国家機関が出したものであっても、「 ※個人の感想であり 効果を保証するものではありません。」レベルにうさんくさい。疑ってかかるべき。
3.きちんと出典や調査法が明記されている情報(=現状の方法では限りなく事実に近いとされる情報)を除くと、情報というのは基本的に事実とは違っていて、したがって情報の内容自体に価値はないと考えるようになった。じゃあ何もかも疑ってそれで終わりかと言えば、そうでもない。情報の内容は疑ってかかるべきだけど、そういう情報が存在すること自体は疑いようが無いからだ。
だから、感想としては、
「こいつの言っていることは疑わしい。俺はこうだと思う。なぜなら・・・」
「こいつの言っていることは疑わしい。しかし、こいつはこう思うらしい。それはなぜか・・・」
「こいつの言っていることは疑わしい。しかし、自分の考えにも自信がないから、もっと調べてみよう・・・」
「こいつの言っていることは疑わしい。が、これは新しい視点だ。おもしろい・・・」
「こいつの言っていることは疑わしい。どこがどう疑わしいか指摘してやる・・・」
みたいなのが考えられる。そして、こういう感想を発生させるポテンシャルこそが、その情報のもつ価値なのではないかと最近思うようになった。もちろん、このポテンシャルは読み手によって異なるから、ある人にとって価値ある情報が、別の人にとっては無価値ってこともあるだろう。情報に客観的な価値はない。
要するに、100ページのスラスラ読める本より、10ページの1日考えさせられる本のほうが、嘘と偽モノにまみれたこの世界では価値があるだろう、という話。