否定は肯定のためにある

 ちょっと前に「インターンシップですごい人たちに会った」という話を書いたけど、あれから色々考えていたら、「何がどうすごいと思ったのか」ということがちょっと分かってきた。
 彼らと議論を始めてまず初めに感じたのが、場が徹底して懐疑主義であったことだ。議論が煮詰まってきたら「前提ちゃぶ台返し」で振り出しに戻したり、沈黙のあとに突然思いがけない方向から攻め込んできたり、とにかく皆が常に論理の穴を探している。悪く言えば「あら捜し大会」、だけど、現状を肯定してしまえば議論はそこでおしまいだ。とにかく次々と新しい視点を持ち出す能力、これがまず最初に圧倒されたことだった。
 だけど、僕が本当にすごいと思ったのは、「否定しあって終わりではない」ということだった。まず現状がダメだということを指摘する。指摘した上で、「これがダメだったから次はこれだね」と付け加える。つまり、「否定するときは常に代替案を提示する」ということだ。これはとても建設的だと思う。幼い人間は、相手の論理の穴を突くことでプライドを満たせるから、否定が目的化してしまう。だけど、本来「否定」は解決すべき問題を発掘するために存在するのだ。だから、問題を解決してはじめてプライドを満たすべきなのだ。「否定だけならサルでもできる。自分で問題を見つけたなら先に自分で解いてから言え。」そんな感じだった。
 そういえばこの前の学会でも、発表後の質疑応答の時間に発表の論理的欠陥を指摘するばっかりの人がいた。確かにその人の否定は正しかったのだけれど、僕は「代替案無き否定」に違和感を感じた。大勢の前で自分の論理を展開することでプライドを満たしたいだけなのではないか?「問題解決」よりも「保身」が目的なのではないか? 考えすぎかもしれないけど。
 否定は肯定のためにある。否定したなら、責任を持って何か別の物を肯定するリスクを負わなければならないと思う。