小説的会話と論説的会話

 この前小説より論説の方が好きということを書いたけど、僕はインプットだけでなく、アウトプットに関しても小説的なものより論説的なもののほうが得意みたいだ。
 ここでいう「小説的アウトプット」とは、結論を最後に持ってくる(つまり、オチがある)話し方や書き方のことだ。小説的な話をするためには、「最も言いたい事(オチ)」を最後において、そこに行き着くために話を構築する、という方法が必要だけど、僕はそこまで上手く話を持っていくことがどうもできない。なぜなら、話す自分はオチを知っているので、ついつい説明を省いたり、ヒントを与えたりしてしまって、オチに至るのに必要な前提情報の説明が不十分だったり不自然になってしまうからだ。要は、話を聞く相手の頭の中を想像する能力が無いってことなんだろう。共感できる人は小説的アウトプットが上手い、というのは結構当てはまる法則な気がする。
 一方で、論説的アウトプット、つまり、最初に結論を言ってしまって、後で説明を付け加える話し方や書き方は、僕にとってそんなに難しい作業ではない。「最も言いたい事」を先に言ってスッキリしてしまってから、その主張を前提に話を進めていくほうが、何かを伝えることが目的の場合は、合理的だと思うし、簡単だ。だけど、こういう話し方では、抑揚がなくて、淡々とした会話しかできない。つまり、場を盛り上げるような効果は、論説的アウトプットには期待できないということだ。これでは、飲み会で会話の主導権を握るようなことはできない。


 なんでこんなことを考えたかというと、面接で聞かれる質問「失敗から立ち直った経験を話してください」に対する答えが思いつかない自分に気がついたからだ。大概の質問は論説的アウトプットで対応できるが、この質問だけは、小説的アウトプットの能力が必要だ。なぜなら、すでに結論を知っている(=失敗から立ち直っている)状態にありながら、あたかも自分が失敗のさなかにあるかのように、そしてそれがいかに(過去の自分にとって)難解な失敗だったかということを強調しながら、現在の解決状態(つまりオチ)に至るまでにあった紆余曲折を、ストーリー仕立てで話さなければならないからだ。まぁ、所詮は自己アピールなので、ストーリー性よりも説得力のほうが大事なのだろうけれど、「俺って盛り上げる会話下手だよなー」ってことを再認識した。
 そういえば、この前の試験、やっぱり撃沈でした。「試験」と名のつくものでここまで露骨に切られたのは、小学校受験に失敗して以来かもしれない。まぁ分かっていたけど、「不合格」って文字はやっぱり傷つくね。