丸くなる気はない

 「自分でなく、環境を変えるべきなのはどういう時なのか」というのを最近良く考える。生意気にも就職する前から転職のことを考えているわけだけど、考えているうちに一つの統一見解ができてきた。要は「丸くなりそうになったら辞めどき」だということだ。


 僕は議論の途中で正論を言う奴がいたら、必ずそいつを否定することを考えるようにしている。正論に論理的に反論できたときが一番クリエイティブで刺激的な瞬間だと思うからだ。研究上の議論に限らず、飲みの席の雑談だったり、ただ愚痴を言い合っているだけの場面でも、僕は常に「なんかぶっ飛んだ発言ができないか」というのを考えている。で、僕の発言が突破口になって話が盛り上がった時、とても愉快な気分になる。まぁ、往々にして正論は正論で、反論できなかったり、代替案を出してもすぐ潰されたりするんだけどね。けど、そうやって棘棘しくしている態度自体が、自分の一番の価値でないか、ということが最近良く考えることであり、ここで言いたい事だ。
 辞退した外資コンサルの面談で僕を評価してくれた人が「新卒の学生に期待しているのは、社会人経験者には無いエッジが効いた考え方だ。君にはそれがある」と言ってくれたことを僕は忘れない。僕が希望の会社から内定を貰えたのも、そのような棘棘した部分があってこそだと思う。だから、その期待に応えるためにも、僕はこの棘棘した部分を失わないように努力するべきだ。だけどそれはとても大変なことだと思う。幸いにも、今いる大学の研究所にはぶっ飛んだ考え方の人間がたくさんいて、異端なものを退けず、面白がってくれる空気がある。だからとても居心地がいい。けど、日本の多くの場所では、ぶっ飛んだ人間は排除される。社会人になると丸くなってしまうのは、社会には常識しか通用しない場所がたくさんあって、そういう場面で生活していくうちに棘棘した考えが思い浮かばなくなってしまうからだ。だけど僕にとって、ぶっ飛んだ人間であり続けることは、自分であり続けることであり、棘棘しさを失うことは耐えられない。
 だから、もし、社会的同調圧力に耐えられずに丸くなっていく自分に気がつくことがあったとしたら、僕は勇気を出して環境を変えるべきだ。そして、どこか別の場所で、自分の棘棘しさを欲している場所を探すべきだ。それは、別の会社かもしれないし、別の生き方かもしれない。とにかく、自分の軸を突き通すためには、空気を読む必要は全く無いということだ。