意思決定にはストーリーが必要


奥入瀬渓流


 僕は優柔不断なので、服買ったり、旅行の行き場所決めたり、休日のすごし方考えたりするとき、選択肢が多くて選べないことが多い。で、選べない理由は判断基準になる情報が不足しているからだと思って、売り場を行ったりきたりして商品を見比べたり、ネットの口コミ調べたり、じっくり考えたりして選ぼうとするんだけど、そうやって選択肢の情報を増やすと、ますますどうやって選べばいいか分からなくなってしまうことが多かった。
 そういう反省があって、最近思うようになったのは、「判断基準になる情報が足りない」のが悪いんじゃなくて、「自分の選択基準が明確化されていない」ことのほうが問題なんではないか、ということだ。極端な話、「俺はドクロのついた服しか買いません」という人は、服買いに行っても選択肢が少ないから、迷うことはあまりないだろう。もう少し卑近な例だと、朝ごはんを毎日ゼロから「今日はおにぎりにしようか、サンドイッチにしようか、コーンフレークにしようか」なんて悩む人はいなくて、みんな何かしら「毎朝パンを食べる」「曜日でご飯とパンを入れ替える」みたいにして、自分なりの基準をもって選択肢をしぼっているから、迷うことなく朝ごはんにありつける。
 要は、自分のストーリーやポリシーをしっかり持って、「自分はこうだ」という決め付けをしてまって選択肢を意図的に増やさないようにしたほうが、スムーズに意思決定ができるのではないかということだ。
 思えば、僕は大学の研究室も、今の就職先も、やりたいことがはっきりとしていたがゆえに、迷うことなくそこを目指し、自信を持って新しい環境を選んでくることができた。そうやって自信をもって選んだ選択肢は後で後悔しにくいし、そうやって自分のストーリーを持っていろんな選択を続けていくことで、自分の中にあるそのストーリー自体もさらに強化されて、次の意思決定もそのストーリーにしたがってスムーズにできるのだとおもう。
 なんかの心理学の実験でも「人間は選択肢が多くなるほど誤った選択を恐れるようになる」ということが証明されているらしい。この世は本当に情報が多くて、選択肢が多い。暗中模索的な状況で意思決定に余計な時間を使ったり、余計な迷いで不安を感じるようになるくらいなら、自分のストーリーを持って、それを信じて進んでみたほうが幸せに生きられるのはないか、というのが最近の仮説。まぁ、それを極端に推し進めて思考を放棄したり、宗教的になったりしてしまうのも問題ですが。