お金は目的でなく手段


たまには風景以外の写真@スカイツリーにて


新しい環境になって一月経って連休も過ぎて、ちょっと熱が冷めて落ち着いてきたこの頃です。本業の研究は、まぁまぁ順調に進んでいます。仕事のやり方だけど、修士時代の自分と比べて、会社を経験したことで、変わったところもあれば、変わらなかったところもある。また、会社時代には見えてなかったけど、新しい環境から振り返ってみて、見えてくるようになってきたこともある。忘れないうちに書いておく。

会社を経験したことで変わったこと

お金のことにうるさくなった

これは自覚もあるし、周りにも言われる。社会に出て、お金のパワーというのを実感するようになり、「お金がないと何も出来ないし、お金を引っ張ってこれないとダメ」という考えを強く持つようになった。前いた会社では、金にモノを言わせて短時間で成果を出すこと自体が価値、みたいな仕事をしていたので、余計にそう感じるのかもしれない。研究者だって、研究費ないと仕事できないし、考えとしては間違ってないと思うけど、必然的に金に結びつきにくいことには手を出さないようになるわけで、自由な人が多い研究の世界の中では、ドライな人間に分類されるんだろうなぁと思う。

単純作業がストレス

これは重々想像されていたことかつ、贅沢な悩みなんだけど、会社にいたころは、単純作業をアシスタントや外注にお金を払ってお願いできたのが、今は単純な実験、試薬調合、計算作業、資料のレイアウト調整、実験器具洗いまで、当然自分の手でやらなければならない。これらは正直、自分でなくても数時間訓練すれば誰でも出来るような作業ばかりなので、できれば誰かに手伝ってもらいたいのだけど、当然それは、お金が無いとできない。これがストレス。「こんなの俺の仕事じゃない」と言うと傲慢だけど、「難しいところは俺しかできないのだから、それ以外の部分はできるだけ分担して効率的に進めるべし」と言えば、間違ってないと思うし、少なくともコンサルタントの場合は高い報酬をもらっているので、むしろそれだけのプライドを持っていなければならなかった。同じように研究者だって、世界一を目指そうとしているのだから、人に作業を任せなければならないくらい、難度の高い仕事に集中できなければ、生き残っていけないのではないか。そしてこれをするためには、やっぱりお金が必要だ。やっぱりお金をひっぱってこれないと勝てない。

会社を経験しても変わらなかったこと

田舎が好き

今、この文章を近所の田んぼから聞こえてくるカエルの合唱を聞きながら書いている。東京に行く前、「しばらく住めば慣れるかな」とか思ったけど、やっぱり最後まで人ごみが苦手だったし、今こうして滋賀の田舎に住んで、毎日自転車で田んぼの中を通勤できるのが、すごく嬉しい。都会のほうが色々あって便利というのは確かにそうなんだけど、僕には選択肢が過剰すぎて、むしろ振り回されている感があった。東京のほうが人との出会いがたくさんある、という声も良く聞くけど、地方にいても、本当に会いたい人とはメールでコンタクトとって、直接会いに行けばいいし、実際そうしているから、特に困っていない。一度にそんなにたくさんの人と仲良く出来ないし、別にこれ以上出会いの機会を増やしたいとは思わない。のんびりと自分のペースで暮らせることのほうが自分にとっては重要だ。

贅沢しなくていい

会社にいたころはとにかく時間が無かったので、食事や移動手段など、とにかく「時間を金で買う」選択肢をとりがちだった。また平日に都心でストレスを溜めた分、休日は湯水のように金を使って毎週郊外に遊びに行っていた。僕はそれを「異常事態」だと思っていた。そのまま会社にいれば、その異常事態が通常になって、どんどんエスカレートしていたと思うけど、今こうして学生に戻ってみて、食事は自炊、移動は夜行バス、ストレスたまらないから休日も研究してる、という生活で、ほとんど金を使わなくなったけど、「やっと普通に戻った」と感じている。食えないほどお金が無いのは困るけど、そこそこの生活ができるんなら、そのなかで安くておいしい物を探す楽しみを感じたりしながら、幸せに暮らせる自信がある。これが自分に向いている。ただ、この3年間の「異常事態」のおかげで「足るを知れた」ことは良かったと思っていて、これは現状に満足するためには必要なことだったのかもな、とは思う。

会社時代に見えていなかったけど今感じるようになったこと

そもそも仕事はそんなに高尚なものではない

僕が会社の環境に一番違和感を感じていたのは、何度も書いているけど、「命を懸けて仕事している人がいない」ということだった。頑張ったって給料変わらない、むしろ頑張ると仕事増える、そして頑張らなくてもクビにならない、という会社員の世界に身を置き続けることに、ストレスと不安を感じて、飛び出してきた。行き着いた研究の世界は、望んだとおり、命を懸けて仕事をしている人ばかりだ。激しい競争のなかで、みな寝食を忘れてやりたい研究に打ち込んでいる。生活がかかっているから、妥協はない。今、その環境に身をおけて、楽しい。
だけど、そこから改めて振り返ってみると、世の中の大多数は「命を懸けて仕事」なんてしてないし、むしろ前の会社は、結構きちんと仕事をしていたほうだな、と感じるようになった。そもそも、仕事なんて、お金が動けばそれでいい。本質をとらえているかどうかとか、きちんとやりきったかどうかとか、たいした問題ではなく、本当の問題は、お金がもらえるかどうかだ。すこし乱暴な言い方をすれば、手段を選ばずとも、お金を動かす目的を達成できればそれで十分だし、むしろ互いにいい加減だからこそ、きちんと社会の隅々までお金が回っているのだと思う。それ以上を求めて、世の中全員が丁寧に仕事をしはじめたら、回るお金も回らなくなって、経済的にはむしろ悪影響ではないか。そういう意味では、前いた会社は、お金をとってくるというゴールに向かって効率的に仕事をしていたし、そのために、個々人がきちんと仕事に向き合っていたように思う。仕事の内容自体に対しては正直、「まだ限界まで考えてないのに」とか「顧客の期待値スレスレ攻めばっかりだ」と感じることが多々あったけど、きちんとお金を払ってもらって、リピートしてもらっていたのだから、それはその金額分の価値のある仕事だったのだと思う。会社にいる間は気付かなかったけど、立派に仕事といえるものを、ちゃんとやっていたんだなと、改めて思うようになった。
ただやっぱり僕は、こだわりを持って仕事にきちんと取り組んだうえで、それを評価してもらいたいし、そうしないと到達できないところまで行ってみたい、という考えは変わらない。そういう意味で、やっぱり僕は、会社員には向いていなかった、というか、会社員になりきれなかったのだと思う。

結局のところ僕は、

こだわって何かを成し遂げたい、そのために個人の裁量で努力したい、そして努力していること自体に安心したい。

というのが動機になっているようだ。
お金は大事だ。だけど、お金を目標とせず、手段としてうまく使いこなしながら、本当の目標に向かって自分を出し切るところに、楽しみを見つけてやっていきたい。