東京は腹が立つ


通勤風景。滋賀の田園に住んでいます。

 出張で1週間ほど東京にきている。3か月弱の滋賀の田舎暮らしを経て、改めて、3年間住んだ東京を眺めてみる。スーツを着た会社員が満員電車に乗ってシステマティックに移動している。テレビでおなじみの地名、テレビでおなじみの会社がそこにある。「日本の政治・経済を動かしている現場がまさにここなのだ」という、3年前に初めて東京に来た時のような感覚になる。3年前と違うところといえば、電車の発車メロディーを懐かしく感じてしまうところか。
 今回は学会に参加する目的で東京に来ている。だから会社員時代以来のスーツ姿だ。そして満員電車に乗って、学会会場の大学に移動している。目の前の会社員と、見た目は全く変わらない。だけど、中身は全然違う。向こうは会社員で会社のために働き、稼ぎを生み出している。僕は学生で、勝手に研究をしているだけだ。システマティックに動きまわり、日本の中心でグルグルとお金を回している彼らからは、「俺は一人前に働いているのだぞ」という自信が伝わってきて腹が立つ。そして被害妄想なのだけど、劣等感を感じる。稼いでない学生ですみません。
 みんな大学を出たら、就活をして、企業に就職する。それは「正しいから」ではなく、「間違っていないから」でしかない。間違っていない選択肢は安心できる。僕は中学・高校・大学とかなり勉強をして、それなりの選択肢を選んできた。それは勉強をして、いい学校に行くことが「間違っていない選択肢」だったからだ。そして就活でも、やりたい仕事を手掛ける会社で国内最大手を選んだ。そこで3年間働いてきたことは、「正しいかどうかは分からない」が、「少なくとも間違っているはずがない」ことだった。そして「俺は一人前に働いているのだぞ」という無意識の自信と安心感に僕は浸っていた。
 研究者は変人が多い。研究者は会社で働いたことが無いから「社会不適合者」だ、と言う人もいる。だけど僕は「会社で働いたけど辞めて研究者に戻った」という点で、希少な「ホンマモンの社会不適合者」だ。もう、日本の中心でぐるぐるお金を回し、テレビニュースの話題を身近に感じながら、「間違っていないこと」に安心しながら生きていくことを期待する権利はない。それを求めてはいけない。「間違っているかもしれない」恐怖と劣等感を拭いながら、自分の決めた道を進み、自分の力で「俺は一人前に働いているのだぞ」を手に入れなければならない。
 僕は今、滋賀で貧乏暮らしをしていている。だけど、稼ぐことに追われて始発から終電まで働くこともなく、自転車で田園風景の中を出勤し、好きな研究をやって、帰り道には毎日ホタルが見れて、気が向いたらナマズ釣りをして帰っている。体の主成分をコンビニ弁当で構築しなくても、3食自炊して、毎日美味しいものを食べながら、月1万円台の食費でやりくりしている。日本の中心にいないし、お金も回していない。だけど幸せだ。これが実現できている。これを、東京の奴らに思い知らせてやりたい。だけど、今、喫茶店でサラリーマンと同じ格好をしてこれを書きながら、目の前でシステマティックに商談しているサラリーマン共を見ると、やっぱり劣等感なのだ。そして、将来が不安になる。腹が立つ。早く滋賀に帰って、東京を忘れて、幸せをかみしめたい。