一生懸命はダサい


飛騨の森

 「意識高い系」という、高みを目指す人を揶揄する言葉があるけど、面白い言葉だ。「一生懸命取り組んでいる人を小馬鹿にするな」と怒る人もいるけど、人が必死だったり一生懸命だったりする姿ってどうしても「ダサく見えてしまう」ものなんだと思う。
 だいたい、自分が一生懸命やっているつもりになっていることのほとんどは、後で振り返ってみると「大したことない」ことだったりする。まぁ、できるようになったあとに、できなかった頃の自分を振り返るわけだから、「大したことない」のはある意味当然なんだけど、重要なのは「本当のゴールを見据えて努力できているか」ということなんじゃないかと思う。
 中学・高校・大学時代と、振り返ってみると、本当に学校でトップレベルに勉強やスポーツができるやつは、淡々としているやつが多かった。一生懸命な様子やストイックな様子をあまり見せず、黙々と勉強や練習をこなしていて、本番では安定してぶっちぎりの成績をおさめる、というタイプが多かった。彼らは、決して努力をしていなかった訳ではなく、努力を向ける先を、目の前の小さな問題ではなく、本当に成し遂げるべき大きな目標に全て集中させていたのだと思う。

 今自分が取り組んでいる問題は、大きな目標に向かうための1ステップでしかない、そんなに大したことじゃない

という意識で、目の前の出来事に淡々と、労力をかけ過ぎず、しかし抜かりなく取り組み続けた結果、本当の目標に真っ直ぐ進んでいくというやり方だったのではないだろうか。
 対して、大したことが無い目の前の問題に、必死に、一生懸命になるのはダサい。大きな目的ではなく、目先の手段にとらわれているように映るからだ。目的に向かうための自分の熱意に自信が持てないか、目的に向かうための戦略が立てられないのをごまかすために、一生懸命に高みを目指す自分の姿に安心しようとしているように映る。
 本当に必死になるべきは、ぶれない目標を立てて、それに向かうための戦略を正しく組立て、計画通りに自分を律することなのではないか。そして、そういう必死さは、自分に向いているから、他人の目に触れることはない。だから、外から見ると、「淡々とこなしてすごい成果をあげる人」という風に映る。本人は、「当たり前のことをやってきただけなんすけどね」というけど、裏ではすごい計算しまくって、どうやったら本当の目標に早く近づけるかを考えまくっている。そして、無駄なことに労力を割かない。道中で壁にぶつかりそうになっても、本当の問題はその壁ではないことを分かっているから、どう目標に到達するかだけを必死に考える。そして、気づいたら壁を過ぎている。そういうやり方のほうがカッコいいし、早く目標に到達できると思う。
 自分の努力を表に出す奴は、自信が無いやつで、悩んでばっかりで、なかなか前に進めない。そして面倒くさくてダサい。個人的には、小中学の教育で、「努力を人に見せることは良いこと」という考えを刷り込んでいることが、この手段と目標を取り違える人間(意識高い系)を量産しているように思う。なんだったんだろう、あの空気。
 大きな目標に向かって、無駄な労力を割かず、淡々と真っ直ぐに進んでいく、クールな姿が理想だ。一生懸命になっている自分に気づいたら、「いやそれ本気出すとこか?」「本当の目標はなんだ?」と常に問うようにしたい。
 「意識高い系」という言葉は、そんなに悪い言葉じゃないと思う。人に向かって使う言葉ではないけれど。