大人になると誰も叱ってくれない


霧の森@台湾


 先日とある研究会で、ベンチャー企業の若手社員(自分よりも年下)による自社紹介の発表を聞いたのだけど、なんか偉そうだった。周知の事実や根拠の薄いことを、自分のほうが良く知っているかような物言いで自信満々に早口で話し続ける。僕は途中から耳が痛くなってスマホをいじり始めたし、周りもそうしていたようだった。質疑応答では誰一人として質問をしていなかった。
 会場の大多数を占めていた僕よりも歳を重ねた聴衆にとっては、これは単なる「時々いる偉そうな意識高そうな若者」であって、珍しいものではなかったのだろう。だけど、僕はこの人のことが(発表内容は全く頭に残ってないけど)、とても印象に残った。自分にとってはまだ珍しい年下の社会人の発表者だったことや、本人には悪気が無く一生懸命発表しているように見えたこともあるのかもしれない。どのような背景が「偉そうな意識高そうな若者」をつくりだしているのだろう。僕はその後もあれこれと考えずにはいられなかった。

「自分を良く見せる」ことを良しとする教育

 「偉そうな意識高そうな若者」をそうたらしめているのは、「客観的に話すことより、自分を良く見せることに重きを置いている」ことだと思う。僕はこの背景に「良い子を目指す教育システム」があると思う。日本における高校生くらいまでの人生で、自己承認欲を満たしてくれるのは親と先生と友達の3者だ。その中でも大人(親と先生)から承認してもらうためには、マナーを守り、ルールを守り、勉強して、部活して・・・という良い子を演じる必要がある。大人側も、そういう模範的な子を褒めて伸ばす。そして「自分を良く見せることで大人に認められて成功する生態系」が出来上がる。そこで子供時代のほとんどを過ごすことで、大人に自分を良く見せることが無意識的にできるレベルに染みついた人間が量産される。その勢いのまま、自分自身が大人になり、親や先生がいなくなってもそれを止められない、というのが「偉そうな意識高そうな若者」の正体なのではないだろうか。特に、「褒められる⇒成功する」というサイクルを絶やすことなく大人になれた「育ちが良くて高学歴の人達」はこういう傾向が強いと思う。

大人になると叱ってくれる人がいなくなる

 自分が大人になることで怖いのは、「褒めてくれる大人がいなくなること」よりも「叱ってくれる大人がいなくなること」だ。冒頭の発表の場でも、質疑応答の時間に誰も手を挙げなかったことが、僕は怖かった。もし彼が高校生であれば、「もう少し落ち着いてゆっくり話して、言葉遣いも少し相手に気を遣ったほうがいいよ」くらいのアドバイスを先生から受けたことだろう。だけど彼は発表について何のフィードバックを受けることもなかった。別の場所で同じような発表を繰り返すことになるかもしれない。あの場で、彼に「偉そうだな」という感想を持った人は他にもいたはずだ。だけど、誰もそれを口にしなかった。誰もそれを彼に指摘する義理は無いし、「どうでもいい」からだ。大人になれば、よっぽど迷惑になることをしない限り、人に叱られることは無い。自分を客観的に見て方向性を修正するのは、ものすごく難しくなる。

「良い子」の存続に最適化されたインターネット

 この傾向に拍車をかけているのがインターネットの登場だと思う。「個人が相手の顔を見ずに発信できるようになった」ことによって、「良い子」を続けるのはますます容易になっているように感じる。
 「自分を良く見せたい」という人にとって必要なのは、「他人の評価」であって「他人そのもの」ではない。だからブログやSNSのように、個人が不特定多数に発信できるシステムはとても合理的だ。相手がどう感じるかや、相手の知識レベルがどの程度かを深刻に考えることなく自分の言いたいことを発信できる。そこに返ってくるコメントでは常に自分の話題の中心軸にあり、相手に話題を持っていかれたり、相手に合わせたりする必要もない。しかも、興味が無い人はそもそも何の反応も返してこないので、基本的にネガティブな反応を目にすることは少ない。まさに自分の承認欲求を効率的に満たすことができるように進化したツールだ。
 ネット登場以前、対面のコミュニケーションしかなかった時代は、相手が自分より知識レベルが高いことに気づいて自分の意見を引っ込めたり、同意できない相手の率直な批判の意見を受けたりする機会もまだ多かったはずだ。インターネットの登場によって、ただでさえ少ない「大人になってから自分を見直すチャンス」を得るのがますます難しくなっているのではないか。そして、批判的フィードバックを受けることがないネット上のノリのまま、対面のコミュニケーションに臨んでしまうケースが増えているのではないだろうか。
 あとこれは少し別の話だけど、ネットの登場で「知識の受け売りがしやすくなった」という点も「良い子」の寿命を延ばすことに一役買っているように思う。昔は「外面だけで中身ないよね」といって見破られていたケースも、「Googleで入手した情報を自分の意見のように発信する能力」を人々が獲得するにつれて、だんだん少なくなってきているのではないか。余談だけど、コンサルで働いていた経験から言うと、Googleの登場によって知識格差が無くなった今、「一次情報の価値」はますます高まっているように感じる。「調べれば分かること」と「この人にしか分からないこと」を区別して受信するリテラシーは今後もっと一般的になるだろうし、そうなっていくべきだと思う。


 だらだら書いたけど、自分を良く見せることが悪いと思っているわけではない。情報があふれる中で潰されないようにするためには、アピールは必要だ。言いたいのは、冒頭に書いたような「偉そうな意識高そうな若者」が、叱られて自分を客観的に見直すことができるチャンスが少なくなっているのではないか、ということだ。若い間は「ウザいなぁ」で済まされるのかもしれないが、そのまま歳をとってしまうと、ますます叱ってくれる人が少なくなってフィードバックが効かなくなるし、権力を持ち始めると面倒くさいことになる。ある日突然、取り返しのつかない炎上に発展するかもしれない。これは本人にとっても不幸なことだ。

本題

 と、粗末な議論をしたけど、実は冒頭の発表の話が印象に残ったのは、何を隠そうこれが自分にそっくりでは感じたからだ。偉そうな鼻につく話し方、落ち着きのない早口、とにかく自分事感が半端なく、聞いていて自己嫌悪しかなかった。
 会社員の時に行ったあるプレゼンを思い出した。聴衆は50人以上いて、ほぼ年上。相手は全員業界のプロで、こっちは雇われ調査会社として数か月その業界のことを調べただけだ。とても知識で相手に叶う訳ない。だけど調査の結果を発表しなければならない。こういう時の最適戦略は「とにかく客観に徹する」ことだ。主観を混ぜる余地は一切ない。だけどその時の僕はまだ未熟がゆえ、ストーリーを上手く作って、発表をきれいに見せることに労力を割きすぎた。発表直後に、自分でも「大失敗」と感じた。自説を展開することに必死になりすぎて時間がなくなり、最後は客観的に説明すべき部分もきちんと説明できなかった。後日、聴衆のアンケートの結果が返ってきた。「まあまあ」の評価がほとんどで、概ね無記入の自由記述の中に、いくつか「早口すぎる」というフィードバックをくれた人がいた。
 ・・・・・ただ、それだけの話なのだけど、このダメージはでかかった。あれだけ酷い発表だったのにほとんどの人がサイレントだった。だけど数人が「早口すぎる」と書いたということは、もっと多くの人がそう感じていたはずだし、書いてくれた数人は我慢ならないから書いたわけで、本当は「偉そうで早口で聞くに堪えない発表でした」という感想を書いていてもおかしくなかったはずだ。被害妄想なのだろうけど「大人になってから率直に意見を貰うことって本当に無いんだな」ということを強く感じた出来事だった。
 だから今、人前で自信満々に研究の話をしている自分が怖い。多少は面白がってくれる人がいることに安心できるけど、叱ってくれる人がいないことには安心できない。自分がやっていることはどれくらいアピールしていいレベルのことなのだろうか?世の大人たち、とくに科学者は、胡散臭いものを嗅ぎ分ける能力は一級だ。もしかしたら自分も「大したことないことを偉そうに語っている胡散臭いヤツ」になっているかもしれない。だけどそうだとしても、誰もそれを教えてくれないだろう。世の中は想像以上に自分に興味が無いのだから。そしてそう考えること自体、自分の自意識過剰な素性を表す自己矛盾であり、苦しみを増幅させる。
 先日ちょこっとこの日記がネット界隈で話題になった時は、率直な否定的意見もいくつかあってとても参考になった。やはり、自分の立ち位置を客観的に見るためには、否定的な意見が不可欠だ。大人になると、自分を叱ってくれる人が本当にいない。ネガティブな意見をビシバシ言ってくれる人がいて欲しい。でもそんな人、いるのかな。できることなら、5年後くらいの自分に今の自分をボコボコに頭ごなしに否定されてみたい。何を言われるのだろうか。それでも「今のままでいいよ」とか言われそうで怖い。