暖かい雨の朝の通勤の車内にて


秋雨のメタセコイヤ並木@マキノ

 家から研究室までは片道6キロ、信号は1つだけの田舎道。最近は菜の花や梅も咲いてウグイスも鳴き始めた。朝焼けとケリの鳴声で目を覚まし、ゆっくりと朝食を食べてから、仕事に向かう。田舎の安アパートなので、室温は一桁。部屋でも息が白い。そこでインスタントお茶漬けを食べるのがうまい。東京で会社員をやっていた頃は、満員電車を避けるために毎日5:43の電車に乗っていた。毎日1本ずつ電車を早くして、確実に座れる時間帯を模索した結果たどり着いた時間だ。本当に気が狂っている。5:20に起きて5:38に家を出て小走りでホームに駆け込み、5:54に乗り換えて6:21に会社についてそこでコンビニパンを食べるという分単位で決められた辛くてつまらない毎朝だった。壁に囲まれた建物の1階に住み、オフィスも地下鉄駅直結。天気や季節を感じるどころか、太陽を見ることすらない毎日だった。もう想像できないし、もう二度とやりたくない。今は研究室へは自転車で通っている。寒暖と気候と季節を感じ、きれいな空気を吸いながら通勤サイクリングを楽しんで、研究室につく頃には、程よく汗をかいている。とても健康的だ。雨が降った日は、別の楽しみがある。車に乗っていくことだ。今の車に乗ってから4年以上経つけど、未だに運転していてとても楽しい。やっぱり僕は車が好きだ。そしてMTがどうしようもなく好きだ。4年も乗っていると、スピードとエンジンの回転音で瞬時にギアの回転を合わせる勘が身につく。交差点を曲がるときは、ダブルクラッチ+ヒール&トゥを繰り返して6⇒4⇒3⇒2とギアを落として、後輪駆動独特の押されるようなステアリングを感じながら加速していく。とても楽しい。さらに楽しいことがある。ラジオだ。車で聞くラジオの雰囲気が好きだ。特に、朝の通勤の車内でラッシュの車列の中をトロトロ走りながら聞くやつの雰囲気は格別だ。コンビニの100円紙カップコーヒーを飲みながら通勤できればさらに格別なのだろうけど、年収240万円なのでそこは我慢。というか田舎すぎてそもそもコンビニがない。朝のラジオのチャンネルはαステーションと決まっている。京都のラジオ局なのだけど、植民地である滋賀にも電波が漏洩していて、とても有難い。僕は大学生の頃に散々聞いていたこのチャンネルがとても好きだ。しょうもない効果音ひとつとっても(交通情報が流れる前のテーンテーンテーン↑!とかいう音楽とか)、大学生の頃の懐かしい気持ちがセットになって浮かんでくる。東京にいたときは致し方なく東京FMに浮気したけど、滋賀に来た初日にラジオをつけて京都のラジオが入ったとき、鳥肌が立つほどうれしくて、「やっぱこれが最強」という思いを強くした。それほど東京が嫌いだったということの裏返しでもある。通勤時間帯のαステーションでは佐藤弘樹という声がとても美しいおっさんがひたすら喋っている。これも僕が大学生の時からずっと変わらない。朝と言えばこのおっさんの声だよね、ってのは京都圏では比較的同意を得やすい話題だと思っている。僕は通常車でラジオを聴くとき、適当に音楽を流しているチャンネルを探す。だけどこの朝のラジオだけは、とりとめの無いことを話し続けるこのおっさんのトークでいいや、という気分になる。で、だらだらと聞きながら運転しながら、近所の梅の開花状況や、畑の作物の育ち具合、川の流量などを確認しながら、10分ほどで研究室に到着する。先日の雨の日、いつものように、とりとめの無いおっさんのトークを聞きながら通勤していると、全然とりとめの無くない、深いことを突然話し始めて、それがすごく印象に残った。何かの引用だったのだけど、それが何だったかはきちんと聞いていなくて思い出せない。その後そのネタについて、断片的な記憶を頼りにググってみたりした。だけどそんな話は出て来なくて、ネットに出ないようなマイナーな引用源だったか、僕が勘違いして理解しているだけだという結論に至った。だけどとても印象に残ったので、僕の勘違い作り話かもしれないけど、ここに書いておきたい。それは、人生の岐路での選択にまつわる話で、

自分が本当にやりたいと思っていることを見えづらくしているのは「もったない」という気持ちではないか

という趣旨のものだった。「その高校でこの大学はもったいない」「大企業を蹴って中小に行くなんてもったいない」「理系なのに文系就職するのはもったいない」「苦労して入った会社を辞めるなんてもったいない」・・・といった「もったいない」という気持ち、言い換えれば「他者による評価軸」を打ち破ることで初めて、自分の本心で未来を選択できるようになるのではないか、という内容だ。これを聞いた瞬間、はっとした。こんな深い言葉がこんな朝のラジオで飛び出すとは。おっさんやるじゃん、ってなった。僕は会社を辞める時、まさにこの「もったいない」を周りに言われ続けた。それを辞める会社の人に言われるのは、分かる。家族や友人に言われるのも、まぁ分かる。福利厚生充実給料抜群永久保証の大企業を辞めて、福利厚生皆無将来保証皆無年収240万の学振特別研究員様になるわけだから、普通の感覚からすれば狂っているし、もったいないとしか言いようがないのだろう。面白かったのは、研究者サイドからも「もったいない」と言われまくったことだ。いや、自分の選んだ道、自分の将来、自分で否定するなよ、と思った。あまりにも全方面から「もったいない」と言われるので、僕も弱気になって「ああ、こんなに言われるのなら、辞めたあとに後悔があるんだろうな、覚悟しとこう」という予防線を張るほどになった。だけど今、1年弱経って、僕は愉快なほど後悔していない。強がりではなく、自分でもびっくりするくらいに、本当に「辞めてよかった」という感想しかないのだ。このラジオの話を聞いて合点いったのは、まさに自分がこの「もったいない」の壁を破って、自分の強い意志と責任で選択をしているという自負を実感しはじめているからだと思う。「もったいない」という言葉、資源節約にはいい言葉だ。だけど人間の選択を指して使うのには、あまり好きな言葉ではない。「もったいない」を捨てて、自分の意志を信じた結果、上手くいかない場合もあるだろう。だけど、「もったいない」に縛られてチャレンジしないまま人生を過ごすのと、どちらが正解かと言われると、誰にもわからないのではないか。少なくとも「もったいない」という気持ちに自分が縛られている可能性については一考してみる価値があるのではないか。暖かい雨の朝の通勤の車内の出来事、とても濃い思考と充実感を持って研究室に到着した。おっさん、ありがとう。やっぱりラジオはαステーションだ。去年の春に咲いていた花や鳴いていた鳥を再び見かけるようになり「もう会社を辞めて1年か」という思いを強くする。「もったいない」から自分を解放したことが、将来吉と出るか凶と出るかは、全くの未知だ。研究成果もようやく出始めたけど、これがどれくらい評価されるのかはこれからの話だ。将来が本当に分からない。世界レベルで分からない。来年の今頃は海外にいて、次にあの花や鳥が見れるのはだいぶ先になるのかもしれない。これが僕が選んだ選択だ。でも今は、毎日がとても楽しい。ちゃんとやっているし、これでよくないですか?少なくとも、1日のうちのたった10分の通勤時間でそれを十分に感じられるくらい、充実している。明日も楽しみだ。