相手の可能性を意識して人と話さなければならない歳になった
先日、大学院修士課程の新入生の前で、講演をさせてもらう機会があった。夢いっぱいのスタートを切ってもらうべく、先輩研究者が研究内容や大学院生活を面白く紹介する、という企画だったのだけど、他にも講演者がいたし、僕はちょっと違う角度から攻めてみたいと思って、自分が会社員を辞めてアカデミアに戻ってきた経緯を説明しつつ、「研究者に向いている人、正直就活したほうが幸せになれる人」みたいな踏み込んだ話を最後にちょこっと挟んでみた。
最後のスライドの一部をそのまま引用すると、
・「何かを根本から明らかにしたい」という強い気持ち
・命を懸ける覚悟
これらを持ちきれない人は、民間企業に行った方が楽に幸せになれるはずです
という内容で、伝えたかったのは「研究者になるためには、生半可な興味ではダメで、命を懸けられるくらいの強烈な知的好奇心が必要だ。果たしてそれが自分にあるのか、良く問うてほしい」という事だった。これは最近自分がよく考えるようになったことで、結局、研究者としての素質や能力って、学歴でも論理思考でも語学でもなく「どれくらい本気で世界一の研究をやる気があるのか」ということに尽きるのではないかと思うのですよね。「世界初の発見をしたい、発表をしたい」という強い目的意識があれば、思考力だの語学力だの事務処理能力だのといった手段をこなす力は自然についてくる。手段でなく目的。これに尽きると思う。
で、一通り話し終えた後の質疑の時間、聴衆の新入生から「アカデミアと会社員を行き来してみて、一番感じた違いはなんでしたか?」という質問をもらった。僕は研究内容のほうで質問が出るかなと思っていたので、この質問は想定外で、とっさに出た回答はかなり本音に近いものだったはずなのだけど、
様々な感想があるとは思いますが、会社って言われたことを言われたとおりに、当たり前にやっていればお金をたくさんもらえる、楽な場所だなぁというのが、私が一貫して感じる一番の感想かもしれません。だから、研究者を目指して努力を積み重ねている人が、就職活動や社会人になることを恐れることは全くないですよ
というようなことを言ったと思う。これもここ数年強く思うようになったことなのだけど、「言われたことを言われた期日までに正確にやる」「問題が起こったら速やかに報告して対処する」といった当たり前のことを当たり前にやるだけで、世の中では意外なほど珍重され、評価される。逆に言うと、社会ではそれすらできてないヤバい状況がそこら中で起こっていて、小さい頃から「大人の世界は厳しくて大変だよ」と教えられて育ってきたアレは本当は嘘だったのだ、と感じざるをえないことで溢れている。ゼロをマイナスにしない仕事さえできれば、十分に信頼されてお金を貰える。ゼロをプラスにする、なんてことが求められるのは、本当に一握りの層であって、世の中の仕事の大半は「当たり前のことを当たり前にやり切る」ことで十分に儲かるようにできている。
そういう、僕が今まさに感じていることを、とっさの質問に対して、出てきたままに自分の言葉で伝えたつもりだった。だけど、この回答に対する会場の反応は「ポカーン」という感じだった。ちゃんと伝わったかな?ちょっと言い過ぎたかも?という不安のまま、次の講演者にバトンタッチ。そして面白かったのは、その次の講演者が、同じく講演の後半で「これから大学院生活を送る皆さんへのメッセージ」みたいなのを紹介していた中で、僕とはかなり違ったことを言っていたことだ。
この人は僕よりももう少し年上で、指導の経験もあるであろう助教クラスの研究者だったのだけど、彼が紹介していたのが、「学生時代はさっぱりで、よく『自分は研究に向いていない』と口にしていたが、今は一線の研究者としてバンバン成果を出している同僚」の事例で、メッセージとしては、
スランプもあれば、伸び期もある。そのタイミングは、自分にも、周りにも、分からない。だから簡単に「才能がない」と諦めることなく、努力を続けてみてほしい
といったものだった。
彼の言葉と、僕が言ったこと、どちらが正しいのかという議論はここではしない。賛否はあるだろうけど、どちらも心の底から新入生に伝えたかった自分の意見で、どちらも正しいと思う。
ただ、これを聞いて、僕自身が思ったのは「あ、俺も歳をとったのだ。気をつけなきゃ」ということだった。なぜか。それは、彼の意見のほうが、大学院生になりたての学生たちに、より信頼を置き、より可能性を見出し、より寄り添った意見だと思ったからだ。対して僕は、今の自分の価値判断軸で、自分が感じていることを、厳しく説得的に本音で語った。果たしてそれが、新入生達にとって、自分事化できるほど身近なこととして受け止められるものだったのだろうか。
少し回りくどくなったので、一言でいうと、
僕が同じ年齢だったころに、同じ講演を聞いたとして、言っていることを理解し、プラスに捉えることができただろうか?多分、できなかっただろうな。
というのを考えてしまったということだ。その日、僕が話した新入生達は、自分よりも6歳年下だ。僕自身、この6年の間に、ものすごく色んなものを見て成長した。6年前の自分には想像もできないくらい、今の自分は豊富な考え方ができるようになった。じゃあ今、その自分が考えている一番新しいことを、6歳年下の彼らに、必死になって本音で伝えたところで、真意を伝えきることなんてできるのだろうか。限られた時間で伝えるべき内容として、僕が話したことは正解だったのだろうか。むしろマイナスの影響すらあったんじゃないだろうか。色んなことを考えた。
言いたいことは、この経験を通じて僕は「相手の可能性を意識して人と話さなければならない歳になった」と感じたいうことだ。これまでの人生では、大体話し相手は年上だったから、自分の最先端の本音で話をしても、「浅すぎる」と思われることはあっても「深すぎる」と思われることは少なかったはずだ。だけどこれからは、少しずつ、自分よりも年下に話をしたり、何かを教えたりする機会が増えてくる。こういうとき、自分の考えを自分の経験に基づいて本音で伝えることが、必ずしもプラスには働かず、場合によっては相手の可能性を見落とす結果につながる可能性を考えておくべきではないだろうか。またそうならないように、「若いころの自分が何を考えていて、いかに無知で経験不足だったか」ということをいつまでも思い出せるようにしておくことが大事になってくるなんじゃないだろうか。
僕も30代が近づいてきて、少しずつ自分のモノの見方、考え方が固まってきたようにも感じる。このことは、自分も「自身の固定観念で伸びしろのある若者に誤った評価を下すオッサン」になる可能性を秘めはじめたということを意味する。これからも、5年・10年くらい歳の違う人間と平気で一緒に仕事をしていくだろうけど、5年・10年で人間がいかに成長するか、ということを決して忘れてはならない。そして成長だけではない。時代背景も違う。今後、自分には持ってない能力や考え方を持った年下が現れることも当たり前になっていくはずだ。そんな中、自分の考えを、自分の経験に基づいて、ただ本音で後輩に伝えていくだけでは、このまま老害まっしぐらではないか・・・そう感じさせてくれた、もしかすると聴衆の新入生以上に勉強になったかもしれない、博士課程2年目の幕開けの出来事だった。