歳をとると小脳で生きる時間が増える
気づいたら朝起きていて、気づいたら朝食を食べていて、気づいたらトイレでスマホを触っていて、気づいたらお尻をふいていて、気づいたら水を流していて、気づいたら着替えていて、気づいたら寝癖を直していて、気づいたら靴を履いて、気づいたら家を出ている。職場についてからは、それなりに頭を使って仕事をしているつもりだけど、気づいたら昼食を食べ始めていたり、気づいたら喉が渇いてコーヒーを入れていたりすることがよくある。そして家に帰って、気づいたら夕食を作って食べていて、気づいたらシャワーを浴びていて、気づいたら布団の中でYoutubeを見ながら眠りについている。
幼稚園の頃は、着替えたりトイレに行ったり靴を履くのですら大脳をフル稼働させるべき大仕事だったはずだし、小学生の頃は、毎食「いただきます」といいながら意識的に食事を開始していた。一人暮らしを始めた当初は、毎朝支度を抜かりなく済ませ、毎晩夕食を作って食べるために一生懸命頭を使っていたし、スマホが出てきた当初は、トイレで携帯をいじったり、布団の中でYoutubeを見るという行為自体がイレギュラーで緊張を伴う行為だった。だけど、今、ふと気づいたときに、それらを無意識的に済ませてしまっている自分に気が付くことがある。こういう状態を僕は「小脳で行動している状態」と呼んでいる。実際には小脳だけを使っているわけではないと思うのだけど、「大脳使ってない」という感覚が分かりやすいから、そう呼んでいる。
歳をとればとるほど、日常の様々な行動がルーチン化してきて、小脳で行動する時間が増えてくるように思う。もう、食事もトイレも靴や服の脱ぎ履きも、何千回もやっているのだからしょうがない。生きてきた時間が長くなればなるほど、そうやって頭を使わない、作業みたいな時間が増えてくるのだと思う。
それで、本当に小脳で完璧にこなせるのであれば、単純に大脳の負担が減るだけなので、いいのかもしれない。だけど実際はそんなことなくて、しっかりと頭を使って考えない分、少なからずエラーも起こりうる。例えば先日、気づいたら箸を左右で違うセットのままご飯を食べ終えてしまっていたし、もっと怖い話では、車の運転しているときに、青信号を無意識的に通過していて、直後に「今信号本当に青だったっけ?」みたいに考え直すことがあったりもした。一歩間違えば重大な結果を招きかねない、免許取得直後にあれだけ緊張していた運転ですら、小脳化されてしまっていたという事実に、僕は大きな恐怖と反省を感じた。
今僕は20代後半だけど、今ですらこうなのに、50歳とか60歳とか、このまま歳をかさねていくと、一体どうなってしまうのかと想像すると、とても恐ろしい。そのうち、人の相談にのったり、誰かと話して何かを決めたりといった行為すら、小脳のテリトリーになってしまいそうだと容易に想像できる。今どれだけ大脳をフル稼働させて一生懸命にやっていることでも、20年とか30年とかのレベルでやりつづけたら、きっと小脳に任せるようになる日が来るのだろう。そしてその延長線上に、老害とか痴呆と呼ばれる状態があるのではないかということも、僕は想像してしまう。だから僕は、歳をとっても色んなことが適当にならずに大脳を使い続けられている人は、本当に努力してきたエネルギッシュなすごい人だと思うし、できることなら自分もそういう歳の取り方をしたいと思う。
こういうことを考えるようになって、僕はできるだけ、身の回りの無意識的な出来事について、改めて深く考え、意識するように努力をはじめた。電車やバスに乗っているときは、小脳でスマホのニュースをチェックしそうになるところを大脳で抑えつけて、周りの人の様子や景色を観察して、できるだけ変化や考察を感じるとるように意識する。スーパーで買い物をするときは、小脳で定番の具材を揃えようとする前に、何か新しい具材を試す余地がないか、売り場を見回してみる。食事をするときも、小脳が給油のごとく食物を口に運ぶのを抑えつけて、いただきますを言って、味わいながら1品ずつ食べてみる。もっとしょうもないところだと、できるだけ電卓を使わずに暗算で計算する、とか、できるだけGoogle Mapを使わずに目的地に到達する、とか。そうやって、あえて大脳が疲れることをやってみないと、放っておくとどんどん小脳に生活を侵食されてしまうような恐怖を感じる。変化の激しい環境に身を置いたり、アウトドアやスポーツといった不確実性の高い趣味を続けることも、小脳の支配を遅らせるために効果的な気がしている。
いずれにしても「大脳 VS 小脳」という二項対立のもと、小脳に支配される恐怖におののくことは、色んな事を改めて見つめなおし、一生懸命になろうという気持ちにさせてくれる、なかなか便利なアイデアだと思う。