なぜ前を向くのか


祈願@立木山寺


 「楽観的な人は人生上手くいく」というのはよく言われる。確かに、楽観的で根拠のない自信を持ち続けられるというのはとても強い。自信があるから、色んな人をどんどん巻き込み人脈を広げられるし、自信があるから、失敗を恐れずに色々な可能性を模索できる。もちろんそうやって、闇雲に人脈を広げたり、リスキーな挑戦をすることで、失敗することもある。そういう失敗をあげつらって、楽観的人間が嫌いな人間は叩く。だけど、楽観的人間の本当のすごさは、そうやって失敗して叩かれても、そこから短時間で立ち直り、前向きになれるところだと思う。楽観的人間の根拠のない自信というのは、思考のかなりコアな部分に存在する自律的な存在だ。だから簡単には消えないし消せない。そして、そういう自信を持ち続けられる楽観的人間のほうが、自信が無くて人見知りで失敗を恐れて挑戦をしない人間よりも、結果として多くの成功と失敗を積み重ねられて、経験豊かな人間になれて、より社会的な地位の高い、よりバランスの取れた思考ができる、より幸せな人間になれるのだと思う。どのみち、自信というものは常に根拠のないものだ。だったら、無いよりあったほうがいい。悲観的よりは楽観的なほうが良い。それは、多分正しいことだ。
 さて、自分の話。この話に当てはめると、僕は楽観的だと思われることが多い。たしかに僕はこれまでの人生で、高い目標に躊躇なく努力を注ぎ込んでうまくいったことが多いほうで、それができたのは「自分ならできるはずだ」という気持ちがどこかにあったからこそだと思う。安定した会社員を辞めて不安定な研究の道で夢を追いかける選択をしたのも、心の底のどこかで、勝算が無ければできない。そう思えばたしかに僕は「根拠のない自信に満ち溢れた人間」に見えるのかもしれない。
 だけど、どう考えても、僕の心の根本にあるのは「楽観」ではない。僕はむしろ、楽観的人間の考え方があまり好きではない。今はそうは思わないけど、かつては楽観的人間を、お気楽な考え方で上手く世渡りをしているだけの、周囲の苦労や苦悩に鈍感で、世の中の理不尽さや不確実性に興味のない、浅い人間だと見下していたこともあった。僕の心の根本にあって、僕を動かすエネルギー源になっているのは「楽観」ではなくて「悲観」だ。僕は常に最悪を考えて生きている。最悪を考えれば考えるほど、不安になって、もっと色んなことをしっかり見て考えたい、後悔のしようが無いほどあらゆる選択肢を慎重に吟味し、少しでもベストだと思う道を選びたいと思うようになる。下を見すぎて、前を向くことでしか安心ができない。だから、根拠のない前向きの自信にも見えるエネルギーが湧いてくるのだと思う。
 世の中はどんどん変わる。自分もどんどん変わる。ずっと同じわけない。そんな不確実な世界で、少しでもたくさん考えて、少しでも将来苦しい目に合わないと思われる選択をすることで安心したい。もし、どうしてもいつか味わうことになる苦しみがあるのであれば、少しでも早いうちに味わって安心しておきたい。そのために決断をし、行動する。未来が楽しみだから決断をするのではなく、未来が怖いから決断をする。決断をしないのはもっと怖い。決断できる選択肢が無くなるのはもっともっと怖い。だから僕は常に、未来の選択肢を最大化する選択肢を選択し続けてきた。選択肢は多ければ多いほうがいいと信じ続けてきた。選択肢は放っておくと勝手に減っていく。だから、多くの選択肢を維持し続けることはコストがかかる。でもそのコストは、未来の不確実性への不安を和らげるのに払う保険料みたいなものだと思う。選択肢の多さは、不確実な未来に対する保険だ。僕は会社を辞めた。それは「このまま会社にいて選択肢が減っていって、不確実な未来を生き残れるのか」という不安に耐えられなくなったからだ。安定した身分にしがみつくしかなくなって「嵐なんかくるわけない」と信じ続け、ある日突然船ごと沈むのが怖かった。それよりは、若くて体力があるうちに、一人で大海に泳ぎ出して波にもまれることで、少しでも嵐を生き残る準備が進められるのではと思った。それで、給料と正社員の身分を捨てた。それは保険料だ。高い保険料だ。もしかすると嵐はずっと来ないかもしれない。来なかったら馬鹿にされるだろう。でも僕は、嵐はみんなが思っているよりも簡単に起こるものだと思っていて、保険料(と自分が思っているもの)を払って安心を買うしか方法が無かった。
 未来は本当に不確実だ。税金で研究者ができる時代がいつまで続くだろうか。高齢化社会が破たんする日はいつくるのだろうか。次の大災害は大地震だろうか、ミサイルだろうか。世界は、日本はいつまで平和なのだろうか。機械が人間の代わりになって判断しまくる日はいつくるのだろうか。僕は自分が生きている間に、世界がグチャグチャなことになっても楽しく冷静でいられるように、これからも最悪を想定し続け、選択肢を増やし続ける努力をする(保険料を払い続ける)ことでしか、自分の心の安定を保つことができない。今の僕は、選択肢を最大化するための選択をしてきた結果、大きな自由を手にしている。博士課程の学生というのは、本当に自由なのだ。何を考えても、何をしてもいいし、しがらみもない。全ては自分の行動あるのみだ。楽しい。だけど、ただ楽しんでいるわけにはいかない。楽しみながらも、この自由を使って、できるだけ色んなことを考えて、色んな人に会って、色んなことをやって、将来の選択肢をさらに拡大して安心しなければならない。今やっている研究は楽しいし、将来できるところまで研究をやりたいと思っている。だけど、一生研究できるなんて全然思っていない。10年後には、とんでもないところで、とんでも無い仕事をしているかもしれない。20年後なんてもっと分からない。まったく分からない。人間は3年もあれば全然違う仕事でも適応できる。それは自分で経験した。それくらい、未来は不確実で、人生は長い。でも選択肢は放っておくと減っていく。だから選択肢を減らさないために、頑張り続けるしかない。それは、根拠の無い自信に基づく楽観的行動ではなく、将来辛い目に遭いたくないから保険料を払っているだけだ。
 ちなみにこの文章は、明日からの海外出張(時差13時間)の時差ボケで苦しむのが怖くて、日本にいる間に現地時間に適応し、時差ボケの苦しみを先取りする取り組みの一環で夜更かししている時間に意識朦朧の中で書いた。辛いこと、苦しいことは先取りして安心するに限る。