毎日のニュースが映画のよう

 11日の地震以降、ニュースサイトを訪問する回数が飛躍的に増えた。今もスマートフォンの待ち受けに色んなニュースサイトのショートカットをいっぱい並べていて、定期的に巡回するようにしている。そうしているうちにふと、自分は映画やドラマに夢中になるのと感覚で地震のニュースに夢中になっているのかもしれない、と思った。表現は悪いけれど、毎日次々と新しい情報が入ってくることにある種の興奮を感じてしまう側面が自分の中に存在することを僕は否定できない。ドラマの次の回が待ちきれないのと同じ感覚で、新しいニュースが待ちきれない自分がいる。一体この先何が起こるのか。続きが気になってしょうがない。
 今や原発事故と首都圏の電力不足が長期化することは確定的になりつつあるうえに、放射性物質の拡散は広がる一方、そして残念なことに死者・行方不明者の数はこの期に及んでも増え続けており、全く先の見通しが立たない。とにかく今大変なことが日本で起こりつつあるということは間違いない。時が経てば、もしかしたら今までと変わらない暮らしが戻ってくるのかもしれない。だけどもしかしたら、もう二度と3月10日以前の日本は戻ってこないのかもしれない。映画化してもおかしくない毎日が、毎日起こっている。
 もちろん、こうやって映画感覚でニュースを見ていられるのは、未だ自分の生活が脅かされる段階にないからだというのは間違いない。食料が不足したり、職が無くなったり、医療が麻痺したり、治安が悪くなったりということが身の回りで本格的に起こり始めれば、毎日がぼろぼろで必死でニュースどころじゃないだろう。ただ、こうやって呑気にブログを書ける日自体がもう残り少ないのかもしれないと思うこと自体にも、「一体この先何が起こるのだろう」という興奮を感じてしまう面があるのが正直な気持ちだ。
 僕がこういう感覚を持ってしまえるのは、過剰なまでに平和ボケしていて、混乱の本当の辛さを知らないからというのもあるのだろう。だけどそれだけではなく、僕が「持たざるもの」であることも大きな理由であると思う。守るべき家族や財産、果たすべき社会的な責任がある人たちは混乱で失うものが大きい。その点、家族も財産も責任も無い僕は、大混乱が起こっても比較的失うものが少ない。だから楽観的でいられるのかもしれない。もしこの先、不確実な時代が続くのであれば、「持たざるもの」に徹して人脈と臨機性を活かした生き方をするというのも選択肢の一つなのかもしれないと思った。