世界は偶然が支配している

f:id:tomotsaan:20181123061838j:plain

開聞岳の夜明け

 

人生って本当に偶然の連続だと思う。

  • 幼稚園のあの時、親があの本を買ってきてくれなかったら、僕が算数を好きになることはなかったかもしれない。
  • 小学生のあの時、あの友達に会わなかったら、僕はこんなに好奇心旺盛な人間になってなかったかもしれない。
  • 荒れていた公立中学校に通っていたあの時、最初のクラスで出席番号が隣で仲良くなったのがあの友達ではなく、あの悪ガキだったら、僕は大学には行ってなかったかもしれない。
  • 中学校の部活で、あの先輩と仲良くなっていなかったら、僕は進学校に行くことも、地元を出ることも考えなかったかもしれない。
  • 高校の進路相談での担任のあの一言がなければ、僕は別の学部に進み、今とは全く違った分野で働いていたかもしれない。
  • 大学のとき、あの一言をあそこで言わなければ、僕は後悔と挫折を味わうことも、そこから立ち直って自分を見つめなおすこともなかったかもしれない。
  • 大学院の研究であの実験の失敗がなければ、自分はあの現象に気が付くこともなく、研究者になるきっかけを逃していたかもしれない。
  • 就活のインターンであの人と同じ班にならなければ、あの社員が担当でなければ、僕はより給料の高い別の会社の内定を蹴ってまであの会社に入ることはなかったかもしれない。
  • 会社員時代のあの飲み会に行けなかったら、僕は今の妻には会えなかったかもしれない。
  • あの休日、天気が悪くて予定を翌々週に延期していたら、僕はあの大事故に巻き込まれていたかもしれない。
  • あの論文の査読者とエディターが違う人だったら、業績が間に合わずに、僕の今の立場は無かったかもしれない。

 少し考えるだけで、いとも簡単に自分の人生が全く違うものになっていたかもしれない偶然のイベントがいくらでも思いつく。今の自分の立場は、自分の努力の上に確固として成り立っているものなんかでは全然なくて、再現性の無い中立な偶然の積み重ねの上に立っているだけの不安定な存在だ。

 もっと考えると、自分が日々脳みそで考えていることも、今まで思っていたような確固としたものでは全然なくて、偶然的で再現性の無いものだと感じる。自分が今複雑なことを考えられていることも、奇跡的なことのように感じるし、ふとしたきっかけで、今と同じことが急に考えられなくなってもおかしくないとも思う。当たり前のように他人と会話で意思疎通ができることも奇跡のような気がしてしまうことがあって、失語症失読症だって無関係な話ではなく紙一重のところに存在していて、ふと今の自分を支えている偶然が途切れてしまったとたんに、自分が急にそうなってしまう可能性だって全然想像できてしまう。嫌なことが起こった時に、子供みたいに発狂せずに理性で自分を抑え込めるのは、当たり前のように見えて、実はすごく高度なことで、認知症になったことは無いけど、自分の脳が感情を抑えきれなくなる状況や、認知症になりうる未来は想像できてしまう。それくらい、脳みそは偶然で脆弱なものに支配されていて、信頼できるものではないと感じる。

 こんな世の中だから、明日だってどうなるか分からない。これからも、おそらくこれまでの人生以上に長い期間、不確実で再現性の無い偶然に支配されながら、でもそれを無意識に受け入れながら生きていくのだろう。自分にできることは、偶然やってきたチャンスを少しでも多くつかんで、そこに正しくリソースを注ぎ込んで、精一杯やりきって、楽しむことだ。そのために必要なのは、いつまでもアンテナを張って勉強し続ける向上心・好奇心と、変化を厭わず進み続ける行動力なのではないかと思う。それでもし幸せだと感じられる未来が来たときは、自分の幸運に感謝しなければならない。