木を見て森を見ず

 やらなければならないことがあったが、煩悩にとり付かれて、はかどらない一日だった。
なんでみんな普通に生きている(ように見える)んだろう??
俺が色々考えすぎなんだろうか??
本当はみんな色々考えてるけど、表に出さないだけなのか??
わかんねー。


 家に就活の案内がたくさんくる。
今まであんまり読まずに捨ててたけど、他の選択肢を知らずに大学院に進むのは愚かだと思うようになったので、
今日はじっくり目を通してみた。
どうやら就活では、自己分析と自己PRがポイントらしい。
考えていることを文章にまとめたり、面接で口に出して具体化するということは、
ある意味、答えを出すということだ。
しかし精神は柔軟で変わり続ける。自己分析をしてる間にも変ってしまうだろう。
そんなものに答えが出せるとは今の僕には到底思えない。
結局のところ、「無理やりそう思いこんでる」だけなんじゃないだろうか。
就活してる人たちは、その自覚があろうと無かろうと、
どこかで自分の出した(出さざるをえなかった)答えと現実の差にストレスを感じているんじゃないだろうか。
まぁ、実際に見られてるのは書かれた答えじゃなくて、どこまで分析できているか、なんだろうけど。
じゃないと理不尽だ。
それにしても、苦しすぎる作業だ。
やはり、みんな色々考えてるけど、表に出さないだけなんだろう。


 ところで、案内によると、「自己分析」には、
今までの自分を振り返って、「自分史」を作ってみることが有効らしい。
これは確かに必要なことだと思う。
そんで色々考えてたんだけど、高校までの学校がいかに自分に強烈なインパクトを与えていたか、
が見えるようになってきた。


 まず、学校生活がうまくいかず自殺してしまう人間がいるほど、
高校までの学生にとって、学校というものは生活のほとんどを占めていると思う。
少なくとも僕については、学校で排除されてしまったら行き場のない状態だった。
学校外の人間との付き合いなんて、本当に家族ぐらいしかなかったし。


 しかし学校というのは、とても偏った環境だと気付いた。
同年代の人間と先生だけで構成されているうえ、
なんといっても、ほとんどの物事が、「優−劣」「善−悪」といった
単純な一次元の数直線のものさしで比較されている。
まるでRPGのステータスが項目ごとに数字で表されてるみたいに。
「優れた考え方-劣った考え方」「優れた点数-劣った点数」「やって良い事-やって悪いこと」
「メンバーに選ばれる-選ばれない」「勝ち-負け」「まじめ-不良」
・・・少なくとも僕はそういう目で物事を見ていた。
確かに、そのほうが単純な比較ができるという意味で扱いやすいし、
そうやって色んなものを一次元化したほうが、大勢の人間に同時に教えやすい。
長い年月をかけて偉い人たちが熟成してきた教育方針がそれなんだから間違いないだろし、
他の方法を言えと言われても僕には分からない。


 そして学生は、少なくともそう感じていた僕は、知らず知らずのうちに、
物事をそうやって判断するように洗脳され、より複雑な世界に放出された。
そこは学校とは全く違い、物事はどこがOかすら分からない多次元の空間に存在し、
自分の位置もステータスも、多次元であらわされ、絶対評価は困難。しかも座標が変動する。
とりあえず自分をOに設定し、周囲の存在との比較を通して、自分の位置について相対的に理解を進めていかなければならない。
地球が宇宙の中心でないことが分かり、太陽系が宇宙の中心でないことがわかり、
銀河系が宇宙の中心でないことが分かったみたいに。
どこまでいけるか分からないけど、宇宙の果てが見えることはないだろう。
たぶん僕はまだ天動説だ。
いつまでも天動説でいたほうが幸せな気もするけど、天動説では説明できない出来事が多すぎて困る。


 自己分析は他人を分析することだ。
自分の細かい部分を見るばかりでなく、他人にもっと興味をもつことが自分の位置を把握することに繋がるように思われる。
とりあえず就活を進めている同年代の人間に「負け」たくないので、
僕もひっそり自己分析を始めてみようと思う。