僕のブログ論

 今日は父親と京都観光した。
今まで寺とか神社とか、微塵も面白いと思ったことがなかったけど、今はとても面白い。
それだけじゃなくて、今まで見向きもしなかった哲学や宗教や経済や法律や芸術や歴史みたいなんにも、
今はとても興味をひかれる。
この原因を分析してみたんだけど、その結果、
これまでの人生は自分の存在を誇示することだけが目的だったのではないかという結論に達した。
勉強していたのも、部活をしていたのも、何かでリーダーシップをとっていたのも、
全て評価されることが目的だったように思われる。
それが絶対評価だと思っていたから、自分の位置も、存在も、それによって満足しえた。
だから寺やら神社を見ても、なんの魅力も感じなかった。
僕は幸せなことに、褒められ褒められ、その度に期待に応えてきたガキ時代だったから、
このような考え方が発生したのだろうと思われる。


 だが、世界観の拡大により、この生き方は敗北した。
そして同時に、絶対評価など存在せず、
自分の位置は、自分が把握する周囲の世界との相対的関係でしか把握し得ないことに気がついた。
そこでなるべく多くの物事に触れ、自分が生きる世界について知りたいという欲求が発生したと考えられる。
だから今はたぶん、興味がないものは無い。なにもかもを知りたい。
だが、時間は有限だ。今は「おもしろいもの」と「超おもしろいもの」の差がなんなのか、分析している。



東福寺。満員電車かと思うぐらい人間がいた。


 一方で、絶対視の反動からか、あまりにも物事を相対視する方向に進んでいて、少し不幸になっている気がする。
自分は物事を疑う能力が強すぎると思う。
最近覚えた言葉を使わせてもらうと、「メタ認知」能力が不必要なくらい高すぎるというか。


 例えば、言葉の存在が信用ならない。
ある意味、全ての概念は言語化できないと言えるが、そういう厳密な意味を離れて考えて、
言語化できない存在はあるか?あるなら認知できるのか?難しい。
今は存在しないと思っている。
だがその存在を認めるなら、それは僕にとって、
実数で成り立っていた世界に、虚数を持ち込むようなものだ。
実数の世界観では、虚数は、いかにしてもその実態をつかむことができない存在で、歯がゆいし、
演算も複雑になるのでできれば考えたくない。
しかし、虚数を取り入れることによって、実数では解けない方程式を解くことができる。そんな感じ。
でもやっぱり僕は感情的(=虚数的)なものを扱うのが苦手なので、できればそういう存在を受け入れたくない。


 だからこそこうやって、
ブログに読む気も失せるような妄想を長々と書くことで、
自分の考えが言語化できたことに安心してしまう。
やっぱり昔は、評価されるために書いている面があったが、
最近は割と自分のために書いている。日記なんで。
じゃあなんで公開するか。
外に見せることで、なるべく自分を客観視しようと努力するし、
誰かが見てくれているという事実により、自分の存在を確認できて安心するからだと思う。
あと、やっぱり、同意してくれたり、評価してくれる人間がいればうれしい。
僕も色んな人の「ブログ論」を読ませてもらったけど、人それぞれで、面白い。
僕の意見は、こんなところだ。


 まぁ、結局のところ、どんなに複雑な妄想に浸っていたって、
メタ認知はとどまる所を知らないし、時間は有限だし、世界は動いている訳で、
最後は「こんなん非現実的な議論だ」といって受け入れるしかない。
疑うのをやめて、前提をでっち上げて、それを信じ込ませて、それに従う自分に酔う。
残念ながら、現実の時の流れに繋がれた犬でしかないようだ。
しかし現時点では、それで楽しければそれで良い、と思われる。
難しいことを考えるヒマがあったら、知識を蓄えよう。