自分なりに今を正当化してみた

 極論を承知で。


 社会には、人がたくさんいて、その数だけ考え方、個性がある。
そして異なる個性はそのままでは互いに共存することができず、衝突する。
ゆえに、社会の成立には、個性を押し殺して共存する能力、「協調性」が必要で、
これは自然にはなかなか獲得できないから、教育で叩き込む必要がある。


 これはとても重要なことだと思う。
協調性がないと、他人の立場を考えることをしないから、
例えば、人を殺してはいけない理由を説明できなくなる。


 だけどこの議論は、ある重大な前提の上に成立している。
それは一行目の、「人には個性がある」という前提だ。
僕はこれをほぼ疑いようのないことのように思っていたけど、
「自身の進む道を自分で決められない」という異常事態に遭遇して、
「自分は個性の存在を前提としない『教育制度』に洗脳されているのではないか」
という考えを持つようになった。


 簡単に言えば、「教育制度」には、
個性の衝突を緩和するために必要なはずの「協調性」を、
個性の存在を否定することで植えつけようとしている、
という矛盾があるのではないかという事だ。


 結果、「無個性」だが、「根拠のない協調性をもつ」ことで満足できる人間ができる。
主体あってこその客体なのに、客体しか知らない。
批判あってこその協調なのに、協調しか知らない。
批判されるのが怖いので、何も主張できない。
根拠無く「どんびき」とか「KY」とか言ってるのがまさにそれ。


 そして、「中高生的評価基準」の中で器用に生きるのが得意で、
教育制度に忠実な犬だった僕は、これによってかなり奥まで洗脳された。
その結果が、主体性がなく、自分から生み出されるもので物事を判断できない今の状況らしい。


 もう、これは考えるだけではどうしようもできない。
「無個性」から直接「個性」は生み出せないし、
今は僕が何を考えても、中高時代の価値観から生み出されたものだからだ。


 だから、僕を洗脳した教育制度を強烈に恨むしかない。
といっても、そのせいにして、すっきりするだけ。
自分を構築した教育を否定する訳じゃない。
そうしながらすこしずつ個性を自然発生させて、「根拠のある協調性」を獲得したい。
本当は世界は想像以上に孤独で、批判にあふれているみたいだ。


 というわけで、いよいよ明日に迫った選択が、
僕の人生においてどのような位置づけにあるか、
ということに関して、とりあえずの結論がでたと思う。
最近日記がきもいから明日からちょっと普通にしてみたい。