これからの労働に関して、社会に出たことが無い人間が妄想してみた。

 人間は世の中を散々便利にしてきた。だけど、世の中が便利になればなるほど、仕事における物理的、情報的、時間的制約が無くなって、「人間的」制約が顕在化してくるのではないだろうか。例えばそのうち、「人間が休むから会社の効率が下がる」「年中無休でなきゃ潰れる」みたいなのがデフォになって、極端な例、「俺が今日休んだら会社が潰れる」みたいな状況も出てくるのではないだろうか。一方で、便利になりすぎて、「人間じゃなくてもできる」という仕事も増えつつあって、そのうち「社会に人間の数が多いことが一番の制約だ」みたいな思想も出てきかねないのではないだろうか。こうなると、もはや経済や社会を動かしているのは人間ではなく、ダーウィン様なのではないだろうか。
 

 考えるに、これを未然に防ぐには、「無駄=良くない」という、自然淘汰の根源的思想を捨てることが必要なのではないだろうか。人と情報が流動化することで、無駄を見つけて取り除くことがますます簡単になりつつある世界で、意識的に無駄を維持することも必要になってくるのではないだろうか。たとえば、一人の人間がやっていた仕事を、もう一人雇って二人でやるようにする、くらいの余裕を社会に残しておくことも必要なのではないだろうか。


 もし、これが叶わず、このまま自然淘汰が激化していくとすれば、物理的な豊かさが上限に達しつつあるこの世界(国)で、もはやダーウィニズムの犬になる理由はない。となると、いかにしてダーウィンに操られずに生きるか、ということに頭を使ったほうがよっぽど面白い気がしてきた。培地で大多数の細菌が生まれる死ぬの熾烈な繁殖競争を繰り広げている一方で、ある抗生物質を作り出すことができる細菌は、抗生物質を作るのにエネルギーを使うので繁殖速度が落ちるものの、競争とは無縁の世界でのんびり増えることができる。そういうのんびりした生活も良いのではないだろうか。


 しかしまぁ一方で、そういう細菌は、競争の最先端で必要とされている最新の遺伝子を手に入れることができないから、外部に抗生物質に耐えるものが出現した瞬間、そいつに一気に突破されて、全滅してしまう。田舎に参入してきた都会の最先端の企業みたいな。やはりダーウィニズムは自然の摂理なんだろう。