デカルトは自分を信頼してくれる人も疑ったんすかね

 「ある」ことを否定するのは簡単だけど、「ない」ことを否定するのは難しい。これは、あることを否定するのには一つの反例を挙げれば済むのに対し、無いことを否定するのには全ての可能性を網羅的に調べ上げなければならないからだ。この非対称性には「悪魔の証明」と言う名前が付いているらしい。


 同じ非対称性が「信じる」と「疑う」にも当てはまることに気が付いた。要するに、信じることを否定するのは簡単だが、疑うことを否定するのは難しいということだ。信じることを否定するためには、何かを信じる人に、「なぜそれを信じるのか」と問い続ければよい。そうすれば、いずれどこかで根拠の無い前提を拠り所にしていることが明らかになる。一言で言えば、「信じるということは根拠の無いこと」であるということだ。一方で、疑う心を論理的に否定することは難しい。たいていの場合、人は根拠無しに何かを疑うことをしないし、信じる理由よりも疑う理由の方が具体的で分かりやすいからだ。

 
 要するに僕が言いたいのは、物事に根拠を求めるべき世界においては、「疑>>信」であるということだ。言い換えれば、何かを信じている人を論理で攻撃して否定するのはとても簡単だということだ(論理で勝てても物理的に負ける可能性はある)。
 だから、何かを信じるという心は貴重だ。疑う心は自分で生み出せるが、信じる心は自然にしか出てこない。そして、一度疑ってしまうと、もう二度とそれを信じることができない。Again, 何かを信じるという心は、本当に貴重だ。


・結論(というか本当に言いたかったこと) 
 幸いにも今の日本では、何を信じるも何を疑うも個人の勝手だ。だけど、一つだけ絶対に疑ってはならないものがある。それは、自分を信じてくれる人間だ。上に書いたように、信じるという心には根拠が無い。だから本気を出せば、簡単に否定できる。でも、なぜか分からないけど、世界には根拠無く自分を信頼してくれる人間がいる。これはすごいことだ。
 にもかかわらず、自分を肯定することも根拠がないことも両方嫌いな僕はこれまで、そういった信頼に対して、「一体何を根拠にこの自分を信じるのか」という懐疑を抱いてしまっていた。悪魔の証明の非対称性を盾にして、無抵抗主義の信頼心を、論理で破壊しようとしてしまっていた。
 22年ちょい生きてやっと気付いた。これはクズだ。死んだほうがいい。早く死ね。自分は何も信じることができないくせに、自分を信じてくれる人間を否定するとかどんだけ偉いんだよお前は。