帰省して感じることたち

時間が止まる

睡眠時間2倍、起きても糞つまらないテレビを見ながらゴロゴロし、婆さんの家に遊びに行けば雑談と手伝いで一日が終了。時間はあればあるだけ使うことができ、無理やり区切らない限り永久に流れ続けるものなのだと改めて痛感。パーキンソンの法則ですな。
 平日の病院の待合室などに行けば同様の時間の流れ方が展開されている例を観察できるけど、限り有る時間、少なくとも若いうちは1分1秒をいかに生産的に使うかを考え続ける生き方のほうがいいな。ゴロゴロするときはゴロゴロ欲をしっかり溜めてから、計画的にゴロゴロすればいい。

ふるさと広島の良さ

広島弁はやっぱりいいです。話しよいし、聞きよい。自然に会話ができるんです。標準語は気持ちが悪い。僕は東京は嫌いだから、反逆の意味でも、4月から東京に行ったら、関西では封印していた広島弁復権させようと思う。それから海。海欲が溜まりまくってたので、ひたすら海岸沿いをドライブして、釣りしてきました。何も釣れんかったけど、瀬戸内海の風景に癒されまくって大満足。そしてお好み焼き。店で鉄板とヘラで食うやつ。これは広島にしかない。うますぎ。
 やっぱ暮らしなれた土地はいいです。愛国心が薄れているというけど、「愛地元心」を持つ人はますます増えているんじゃなかろうか。そして僕は、この東京一極集中の流れを引き止めることができるのは唯一、この愛地元心である思っている。そこに経済的理由が無くても、「残りたい」という気持ちがあれば、それは残るのに足る必要十分な理由だ。

飯がうまい

貧乏学生な普段の生活からすれば、帰省(寄生)中は考えられない食生活が手に入ります。外食に行けば生まれながらのスポンサーの全額支援が得られるし、すき焼きをすれば普段食ってる肉の15倍の値段の肉を満腹まで食え、酒でも菓子でも最強グレードのやつが無限に買えるという展開。僕は美味しい食事の時間が人生で一番幸せな時間だと思っているから、まさに幸せの連続なわけですが、これで舌が肥えて通常のものが不味く感じるようになってしまえば、それこそ「目先の幸福を追求して大きな不幸を手にする」というこの世に最も豊富に存在する愚のお手本を演じることになってしまうわけで、いくら美味いものを食べたって、ファーストフードだったり、缶詰ご飯だったり、青菜炒めだったりを美味しいと思える感覚は残しておきたいと思っている。
 どんな美味しいものを食べたって、もともと美味しいと思っていたものなんだから美味しいと思えるはずだ。そもそも目の前に食い物が存在するというだけで凄まじく幸せな状況なわけで、その食べ物を「過去に食べたより美味しいもの」と比較して「美味しくない」とか言ってるのってとんでもなく傲慢なことだと思うのです。そんなのは絶対にいやだね。僕はいくつになっても、どんな高級な料理を食う身分になっても、今の僕が食べて満足しているものを不味いと思う人間にはならない。