ジジイと繋がっている職場
@マレーシア ランカウイ
3年前、大学4年生にあがったころ、研究室配属になって思ったのが、「ここはジジイと繋がっている」ということだ。それまでの人生は基本的に周囲が同年代の人間で固められていたのに対して、研究室というのは、マスター、ドクター、ポスドク、そして助教、准教授、教授と、3歳刻みくらいであらゆる年代の人が共存している環境だ。そんな中で暮らし始めると、自然と、3年後の自分を3年上の先輩に、10年後の自分を10年上の先輩に、20年後の自分を20年上の准教授に重ねて見るようになっていき、それまで「夢の中の出来事」であった将来の自分の姿が、一気に現実味を帯びてくるようになった。「ここにいるとこうやってジジイになっていくのか」という繋がりが、ものすごくリアルに感じられるようになった。この「ジジイと繋がっている感覚」こそが、僕が研究者という夢から覚めて、いったん別の世界を見ることにした大きな理由の一つだった。
だが今、社会人になって思うのは、会社で感じる「ジジイと繋がっている感」は、研究室のそれとは比べ物にならんほどリアルなんだな、ってこと。そりゃそうだ。先輩が3歳刻みどころか1歳刻みで、かつ各サンプル3繰り返しくらいで存在していて、しかも年功序列社会。社内を見渡す限り、「ここではこういう風に歳とっていくんだな」っていうモデルにあふれている。自分が何もアクションしなければ、おそらく、物事は極めて予定通りに進んで、本当にそうやって歳をとっていくのだと思う。あっという間にそれが現実になっている様子が、恐ろしいほど容易に想像ができる。
もちろん、尊敬すべき、目指すべき先輩社員はたくさんいて、「ああいう風になるためにはどうしたらいいのだろうか」みたいなことを考えもする。するけれど、でもやっぱそれって結局「見えちゃってる」未来なんだよね。そこがとてもつまらなく感じてしまう。未来は見えないほうが楽しい。「どうせこうなる」とか思いながら色々やりたくない。見えないからやる意味ある。だから、あえて、どの先輩社員にもないケースを目指してやってみたい。いろいろアイデアはあるし、恐れず実行したい。どうなってもいいし、どうなるかわからないのが楽しいと思う。