時間の無駄遣い

 以前の僕からはとても考えられない行動なんだけど、
最近哲学チックな本が面白い。が、とても難しい。
僕の考えていたようなコトはとうの昔に誰かが考えていて、
議論はさらに深い次元で行われている。
1ページ読むだけでとても脳が疲労する。


 僕が本を読んだ後の感想として、どんな本でも、ほぼ必ず、
「こんな文章書ける人すごいなぁ」ってのがあるんだけど、
こういう本を読んでいると本当にそれを感じる。
本の内容より、どう考えたらこんな抽象的なコトを書けるんだろう、
ということで頭がいっぱいになって、進めなくなってしまうほど。


 そう考えると、僕がいつもここに書いている文章がいかに幼いか、という事が見えてくる。
そこで思うのは、文章というのは、会話と違って、一方的なコミュニケーションだということだ。


 どんな抽象的な内容だろうが、議論というのは何らかの前提をもたないと意味を成さないと思う。
なんで?→こうだから。→それはなんで?→こうだから。→それはなんで?→・・・
というふうに議論していっても、永久に答えは出ないからだ。
だから現実的にはどこかで、「これは前提だから」と決め付けることで、その流れを堰き止める必要がある。
抽象度の高い議論なら前提は「深い」位置にあるだろうし、
現実的な議論なら前提は「浅い」位置、「常識」とよばれる領域にあるだろう。


 話はそれるけど、大人になる、という事は、
自身の思考回路内に説明不要な「前提」を置くことで、
自分の行動の根拠をその前提で説明できるようになることではないかと思い始めた。
ここでいう「前提」はつまり、「自分はこういう人間だ」という「自覚ある思い込み」であり、
一般的な言葉で、「信念」とか「正義」になるんだと思う。
信念をもって、それを貫いて曲げない人間は強いしかっこいい。
就活の「自己PR」で書くべきなのも、ここなのだと思う。
「前提」だから否定もしないし、分析もしない。
だが、「前提」であることを知っているから、その欠点もそれ以外の前提があることも知っている。
今のところこれが最強形態の考え方だ。


 話を戻す。
双方向的な「会話」の場合、前提の位置は、「会話の流れ」として、自然に把握される。
双方の間で、この前提の位置がズレてると、会話が上手く成立しない。
身近な例で言えば、「比喩」だとか「冗談」だとかいう前提で会話が進んでいるのに、
当たり前のことを言ってしまう人間とか。俺も割とその傾向があるんだけど。
抽象的な例で言えば、AとB、というカテゴライズを前提に話が進んでいるのに、
いや、まず、「AとB」という分類はおかしい、と言いだす人間とか。
例えばA=理系、B=文系、って感じで当てはめると良くありそうな話だ。


 そして、一方的な伝達手段である「文章」では、
読み手と書き手の間での前提の共有がさらに難しいと感じる。
そこには「会話の流れ」が存在しないため、
前提を前提として、文脈に頼るにしろ、明記するにしろ、固定する必要が生じてくる。
思うに、僕はこの作業がとても苦手だ。
ひとまとまりの文章の中で、前提の位置をそろえて議論することがとても難しいと感じる。
書いた日記を読み返して、様々な次元の議論が入り混じってることに気が付いて、
こっそり修正してしまうこともよくある。


 そういう意味で、文章を書くためには、その事柄について相当深い領域まで熟知していて、
同じテーマでも、前提を置く階層によって、
議論の内容がどう変わってくるかという事を理解している必要がある。
途中で前提をすりかえることは許されない。
そういう意味でも、抽象的で哲学的なコトを書いたり訳したりしている人間はすごいと思う。神だ。


 そもそも、相手の意見を聞かずに一方的な発信をする、「文章を書く」という行為は、
相当「偉そうな」行為だと思う。
その場の思いつきを文章化して、発信すると、遅かれ早かれ、必ず誤りに気付く。
「偉そうにしている」自覚を忘れず、それに怯えながら、
自分なりに分析しつくされた文章を書かなければならないと思う。あくまでも「自分なり」。
だからそれと同じくらい、文章を読むときは慎重にならなければならないと感じる。