results and discussion

 先日の、「飛び込み自殺を迷惑だというのはどうなのか論争」に関して、納得いくまで考えておかねばならぬと思い、それなりに考え、それなりの考察を得た。本来は、人間的な感情で結論を出すべき問題なのかもしれないけれど、僕は物事を言葉にしないと理解できないので、言葉になるまで考えた。


結論1.思っていてもブログで言うことではなかった
「勝手に書いているのだから読みたくなけりゃ読まなければいい」というスタンスでやってたけど、世の中には、一言で相手を不快にする言葉もたくさんあるから、この論理は通用しないと思った。「一人の人間の一つの意見でしかないのだから、単に一つの意見として捉えればいいではないか」という考えも、理想論であって、世の中にはそういう冷静な判断を失わさせるくらいに相手を不快にする言葉があるということに、注意を払わなければならない。例えば、親が電車に飛び込んだ人とかが読んだら、そういう気持ちになるかもしれない。すみませんでした。

では、僕はなぜそういう思考に至ったのか。


結論2.自分は運が良い人間だった
自分で自分を「運が良い」なんて言うなんて、傲慢かと思ったけど、自分は運がいい人間だと「思わなければならない」と思う。僕は、毎日何万人も貧困で亡くなっている世界で、日本に生まれたコト自体、凄まじく幸運なことだと思っているし、そのなかでも、ご飯に困らない家庭に生まれたし、夢に向かって計画を立て、努力する才能と機会を両親から与えられて育ったと思う。そして、なによりも幸運なのは、今まで、努力や思考で解決しなかった問題がなかったことであると思う。
 運が良いと自覚するということは、周りに感謝をして生きていくということだ。そして、僕みたいに運が良い人ばかりでないということを知るということでもある。これまで僕は、入念に計画して、努力すれば、何でも成し遂げられて、それができないのならば、努力か計画、どちらかが足りないのだ、という風に考えて過ごしてきた。だけど、これは、運が良かったから思えたことであって、実際には、僕には想像できないくらい、「努力じゃどうしようもない」という状況が往々にしてあるらしい。僕は、もっと、世の中の「どうしようもなさ」を知らなければならないと思う。この自覚が無かったことが、電車に飛び込む人間を理解しようとしない僕の態度の原因であったように思う。


結論3.僕は人を傷つけることを滑稽なまでに恐れる
これは、一つメタな視点から。僕はなぜ、このテーマに関し、「納得いくまで考えておかねばならぬ」と思ったのか。それは、他人を傷つけうる自分が明るみに出たから、に他ならないと思う。僕は、極端なまでに他人を傷つけることを恐れる。確かに、他人をなるべく傷つけないようにするのは重要なことだと思うし、無意識に他人を傷つけていたことに気がついたら、それを修正すべきだ。だけど、誰も傷つけずに生きるなんて、絶対に不可能だ。どこで、誰を傷つけているかなんて、絶対に分からない。例えば、今僕は、自分で自分を「運が良い」と思うことが良いことだと思っていると書いたけど、ある人からすれば、「自分が味わった苦労を味わわずに幸運とか言っちゃってる人間は不快でしょうがない!」という感想もあるかもしれない。何かを喋れば、必ず、その発言によって傷つく人間がいる可能性も一緒に発生する。これは、避けようがない。
 なのに、僕は、極端なまでに他人を傷つけることを恐れ、完璧に誰からも嫌われず生きようとしている気がする。絶対できるわけないのに。そんで、そんな実現不可能な目的を、「自称何でも努力で解決できる運の良い人間」が必死に努力で解決しようとしている姿が滑稽でしょうがない。人を傷つけることを許す自分が許せない自分の弱さに呆れている。