モノには価値が無い。ヒトが価値を決める。
どんなに素晴らしい研究成果を出しても、それを他人に認めてもらえない限り、その研究は自己満足でしかない。
これは僕が大学で研究をするようになって、最も考えさせられてきたことだ。研究結果に価値が発生するのは、結果が出た瞬間ではない。結果が認められた瞬間だ。なぜなら、情報の価値を決めるのは、発信者でも情報の内容でもなく、情報の受信者だからだ。自分の研究結果の価値を正しく伝えることまでが、研究者の責任であり、能力だ。
これは別の言い方をすると、
「真偽」や「価値」といった概念は、情報や物体が有している
という考え方だったのが、
情報や物体の「真偽」や「価値」は、それを扱う人間が(勝手に)決めている
という考え方にシフトしてきたとも言える。
僕が「自分には自然科学は向いていない」と思ったきっかけも、原点はここにある。研究者は「科学的真実」を追究することに命を懸けているけど、そこには結果を評価してくれる「人」の存在は無い。つまり、研究という行為自体が何か客観的価値を生み出している訳ではないということだ。なぜなら、研究結果の価値は、それが他人に認められたり実用化されたりすることによって初めて生み出されるものだからだ。
要するに、
ヒトに向き合わず、モノに向き合っているだけでは、自己満足を超えたものを得ることはできない。
と考えるようになった結果、高純度でモノに向き合う研究者という職は、僕には向いていないのだな、と思うようになったということだ。
話は変わるけど、今日は髪を切りに行ってきた。いつもイキりパーマをかけてもらうんだけど、今回は就活中ということで、ガキみたいに短くしてもらった。顔的に本当にガキみたいになるから困る。今日さっそくラーメン屋で「ボク」って呼ばれたしな。ゲーヒーもあんま生えてこないし、寒すぎてモコモコのジャンパー以外着るもの無いし、大人ぶる方法が無くて困る。
さて、その時に美容師と話したことが面白かった。案の定就活の話になったので、「モノだけでなくヒトにも向き合いたいからコンサルに行きたいと思った」と話したら、美容師が「確かにモノばっかり見ても相手がいないですしね」と、賛同してくれたので、切り返して「美容師はどうなんですか。モノ(技術)とヒト(お客さん)のバランスが大事ですよね」って話をふってみた。そしたらその返しに「それは違う。人形相手の練習でも絶対に誰かを想像しながらやる。お客さんに喜んでもらうための技術であって、技術を高めること自体に意味はない」と言われて、「はっ」と思ってしまった。
そうだ。やっぱりモノじゃなくヒトだ。技術とお客さんとで向き合うバランスが大事なのではなく、評価してくれるお客さんがいるからこそ、技術に価値が生じてくるのだ。似たようなことは、人と向き合うあらゆる業種の人たちが考えていることに違いない。そう考えると、研究というのは、ヒトを排除し、モノに向き合うことを目的化した、唯一の業種だと見ることもできる。
モノには価値が無い。ヒトが価値を決める。「世の中の本体」は人が生きている現場だ。
↓この夏、モンゴルの大草原で暮らす人たちを見て感じたことが、ようやくまとまってきた気がする。
Монгол - 日記なんで。
今回、草原を見ながら色々考えたが、僕には基礎科学の研究者としての適性が無い気がしてきた。基礎研究は僕にとって抽象的過ぎて現実離れしている気がするからだ。人間が生きている現場こそが現実であって、僕はもっと現実が見たいと思う。