悲劇(実話)

 6時に目覚ましが鳴った。今日は先送りにしてきためんどくさい実験をすると決めた日だ。前日ツールドフランス見ていたせいでとても眠い。寝ぼけ状態で食欲ゼロの胃にむりやり飯と海苔を詰め込みながら、スマートフォンでニュースをチェックする。女子サッカーが優勝したらしい。すごいことだと思った。その一方で、これだけの業績を出して初めて注目されるという、マイナースポーツの宿命とマスコミの虫の良さなども感じる。室温は33度。窓を全開にすると、外のほうが涼しい。台風が近づいていることもあって、湿っぽい朝だ。最強にした扇風機を部屋側に向けてベランダに置き、外の涼しい空気をとりこむ。パンツ一丁で飯をほおばる。眠い。テンション低い。
 ようやく飯を食い終えたので、二度寝せぬよう、立ち上がった勢いで一気に歯磨きして、寝癖を直し、昼飯用の白飯をタッパーに詰めてカバンにぶち込んで、ヘルメットをかぶって靴を履いて家を出た。原付にまたがって、フルスロットルでスタート。駐輪場を出るまでに4速まで入れて、そのあとすごい速さでシフトダウンしてエンブレかけながらカーブを曲がって道に出て行くのが最近のトレンド。アホだ。外は圧倒的な車の少なさ。今日は休日だ。糞ウザい私大生もいないので、遠慮なく最短ルートを通る。平日の通学ラッシュの時間は私大生の原付が危なくてやってられないので回り道をする。あいつら対向車線を逆走するわ、歩道を爆走するわで頭が逝っているとしか思えない運転をする。すぐに免許を取り上げるべきだ。死ぬなら周りを巻き込まずに勝手に死ね。
 で、学校に着く。ガラガラだ。今日は休日だ。さっそく実験を始める。寝ぼけながらも、最初の試薬を調合して、反応を始める。糞だるい。今日は一日がかりの実験だ。しかもサンプルが100以上あり、それぞれに対して20分とか30分とか細切れの時間単位で操作が必要になってくるので、息つく暇が無い。これから始まる一日のことを考えるだけで憂鬱になる。今日は休日だ。今ごろ布団の中でもぞもぞしながら幸せな時間を過ごしている人がたくさんいるのだろう。
 10時。実験は順調に進む。ひたすらピンセットで薄っぺらい膜を移し変える作業。単純作業の塊。飽きる。始めのうちは、実験の待ち時間を有効に使うべく論文読んでたりしたんだけど、そんなストイックなことやってられっかよ。途中から待ち時間はタイマーかけて仮眠することにした。僕はストア派ではない。コロコロがついていて、高さが調節できるタイプのイスを3つ並べて、そこに横になって寝る。実験オタクの人達が徹夜するときに使っているワザだ。さらに、知る人ぞ知る裏ワザとして、頭の部分のイスだけちょっと高さを高くすると快眠度が格段に上昇するというのがある。おたくのオフィスでも是非お試しを。眠すぎて、横になった瞬間気持ちよく向こうの世界へ行けた。まぁ、寝たと思ったら、けたたましく不快なタイマーに叩き起こされて、不毛なピンセットの往復運動が始まるんだけどね。そんなことを繰り返しながら、途中で昼飯を食いつつ、全工程の8割方を終える。やっぱり僕はストア派なのかもしれない。
 17時。ゴールが見えてきた。何とか明るいうちに帰りたいと思い、ペースを上げる。ピンセットで膜をつまむスキルも上昇してきた。この世のあらゆる場所を探してもこのスキルを役に立てる方法が見つからない。チャーハン。家に帰ってチャーハンを作りたい。その一心だ。ここのところ、鉄フライパンに油がなじんできて、最強火力でカンカンに熱したフライパンでカンカン言わせながら料理を作るのがとても楽しい。昨日は家で全裸扇風機で飯食いながらこの動画をひたすら再生してニヤニヤしてた。

早く帰ってチャーハンを作りたい。脳内でカンカン言わせてチャーハンの予行演習をしながら、最後の作業にとりかかる。ここまで本当に長かった。
 19時。ようやく実験が終わり、片付けに入る。最後の作業に時間がかかってしまい、明るいうちに帰るというのは難しそうだ。まぁいい。この時間をチャーハンに対する期待を膨らませることに使用することによって、積算の喜びの総量は高くなるだろう。僕の特技は後から理由をくっつけて現状を肯定することだ。片づけをしながら、実験器具の洗い忘れや試薬のしまい忘れが無いように、今日自分がした操作を一通り脳内で再生してみる。すると、どこの操作で使ったか思い出せない試薬を使っている自分が再生された。今日の操作ではこの試薬は登場しないはずだ。違う日の記憶が紛れ込んでいるのか?・・・違う。あれは確かに今日だ。今朝だ。寝ぼけていたときだ。血の気が引いた。今月の瞬間最高冷や汗更新。試薬を間違えた。しかも、今日朝来て一番最初に調合したやつだ。
 ということはつまり、今日朝8時頃の時点で既に僕の実験は何も産み出さない単なる膜の移し変え作業と化していて、そのまま今まで11時間も無意味な実験を頑張り続けていたということだ。なんたる悲劇。悲嘆に暮れる僕は誰もいない実験室で思わず独り言をつぶやいてしまった。「こんなに頑張ったのに。」
 絶望に暮れることに時間を無駄に使ってしまった。もう20時だ。腹立たしさや悲しみで、いても立ってもいられない。鉄鍋を振ってカンカンやっていたはずの男は今や、全然トイレに行きたくないのにとりあえずトイレに行ってチャックを降ろしてみたり、無意味に器具輸送用のバスケットを持って廊下をウロウロしたりと、自分の心のコントロールを完全に失った男と化してしまった。僕より遅く来た人たちが次々と帰っていく。まして、今日は休日だ。そもそも来ている人は少数派だ。一体僕は何をしていたのだろうか。2011年7月18日、僕はこの世に存在していた意味があったのだろうか。
 目の前には今から洗うべき実験器具の山。ただでさえ実験器具を洗うのは面倒なのに、何も産み出さない茶番の後片付けと分かると、なおさらだ。やってられない。けど、器具洗いはまだいい。30分もあれば終わる。それよりも、別の日に同じことをもう一度しなければならないと考えると、発狂しそうになる。今日一日潰してやったはずなのに!それに、サンプルも試薬も無駄にしてしまった。多くのサンプルは予備を取っておいたからいいものの、中には予備のないサンプルもあった。これはもう、二度とこの世に戻ってこない。実験の途中で高い試薬を使う工程があるのだけれど、この試薬も無駄になった。つまり、今日の僕がこの世に存在したことは、無意味であったどころか有害であったということだ。こんなに頑張ったのに有害だったなんて。切なすぎるわ。
 家に帰ったら9時半だった。チャーハンとかもうどうでもいい。糞食らえ。でも一応、糞は食わない。代わりに、豚丼を作った。一応カンカン言わせといた。これが案外味付けに成功して美味くて、シャツ一丁扇風機で食いながらネットで馬鹿な動画見てたら、なんとなく気分が静まって、なんとか明日からも生きて行けそうな気分になってきた。僕の特技は後から理由をくっつけて現状を肯定することだ。一晩空けたら今日の自分の存在に意味を与えることができるようになるだろう。