この気持ちを何かに役立てなければ

 夏休みシリーズ最終弾・北日本ドライブ、企画倒れにせずきちんと実行して参りました。



↑まずは来年から同期になる予定の内定者たちと日光−那須へ紅葉観光旅行。東京で合流してレンタカーで移動的な旅。

↑同期になる人たちは、「見ざる言わざる聞かざる」の下で「コンサル」とか言ってアホなポーズで写真撮ったりしちゃう人たちです。社会人になるにあたっての懸念の一つが、丸くなってアホなことが出来なくなってしまうことだったのだけれど、「賢いアホ」のコンセプトをハイレベルで共有できそうな人達ばかりで、安心した。負けられません。

↑こんなコテージにみんなで泊まったりね。まるで学部生のサークル旅行。楽しすぎるわ。入社前なのにも関わらずこのようなイベントが発生していること自体、異常事態だと思う。圧倒的なノリと現実的な行動力の組み合わせさえあればなんでもできるという説の具体例。

↑で、牧場行って乳搾り体験したり。このレアチーズケーキが感動的に美味かった。
楽しい旅でした。来年から東京でひしめくリーマンの一員として生きることによって、今までの生活の多くが失われてしまいそうな気がして、物凄く怖かったのだけれど、今回は東京で内定者の人達と楽しめたことで、「東京に来れば新しいものもたくさん手に入るのだ」という気分になって安心した。それだけでも、参加した価値があった。
 


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で、東京に置かせてもらっていた自分の車に乗り換え、次は一人で、車で東北の被災地を見てくるという企画。

↑まずは高速でいわき市まで行き、そこから海岸線を北上する作戦。写真はいわき市内、津波の跡が残る窓ガラス。このあたりは腰あたりまで水が来ていたみたいだ。家が流されるレベルではなかったにせよ、ガードレールが折れ曲がっていたり、一階部分がめちゃめちゃになった建物がまだ残っていたりして、相当な勢いの水が押し寄せたことが想像できた。平日だったこともあり、工事のトラックが頻繁に出入りして、破壊された家々の修繕が行われていた。

↑一方で、中には「直さない」という選択をとった家も少なくなかった。去った人たちはどこに行ってしまったのだろうか。完璧に破壊しつくされた街はもちろん悲惨だけど、被害が比較的少なく、復興の兆しが見えている街でも、去る人と残る人が分断されるという悲劇が起こっているのだと感じた。

↑で、6号線をずっと北上していくと、「5キロ先 楢葉町以北 通行止」の表示。20キロ圏が迫ってきた。

↑そしてついに通行止。が、ここは他の20キロ圏境と違って対策の拠点となっているため、車通りはかなり多く、賑やかな感じだった。が、そこを走るのは、資材を満載したトラックと、防護服を着た人を満載したバス、通勤中の作業員が乗っているマイカーだけだ。原発関係でない、地元の人はほとんど見かけなかった。通行止の直前にあったコンビニも、作業員で溢れかえっていて、「防護服着用での入店お断り」と書いてあったが、防護服のまま入っている人も何人かいた。

↑で、今度は一番線量の高い西側からのアプローチ。浪江町に入ったところで、写真のような看板がたくさん出てくるようになり、ほとんど車も人もいない世界に突入。知らされてなくとも異常な場所に来たことが分かる状態だった。

↑ほどなくこのような看板が現れ、通行止めに。警察の人が出てきて、免許証やら学生証やらを出さされた。やっぱ変な人がうろついているらしい。このあたりはチェルノブイリもびっくりの20μSv/h越えのはずだけど、警官は若い男の人二人で、マスクをしている以外は普通の装備。ヘルメットに「大阪府警」と書いてあった。おそらく交代で警備をしているのだろう。20キロ圏内で警備している人たちはもっと大変だ。「お疲れ様です」と声をかけないではいられなかった。

↑その後は飯舘村経由で20キロ圏スレスレに南相馬市まで北上していく作戦。

↑本当に誰もいない。たまにパトカーがすれ違ってくるのと、一台だけ見物客らしきバイクをみかけただけ。現実は想像していたよりもひどかった。

↑集落に接近。遠くから見ると普通の町。

↑しかし近づくと、誰もいない。町並みは普通なのに。地震には耐えたのに。本当に事故さえなければ普通の暮らしに戻っていた場所なのだと思う。

↑紅葉は那須で見てきたものと何の違いもない。事故のことを知らなければ、車通りが無いことに気がつかなければ、普通に景色を楽しんでドライブできる場所だった。あとで調べて分かったのだけど、この写真を撮った場所も20キロ圏外では最高レベルの20μSv/h越えの場所だったらしい。このような場所に2時間ほどいたので、レントゲン一回分くらい被爆しただろうか。もうこの景色を楽しむことができる人はいなくなってしまった。

↑次の集落に入るが、やはり無人。町の見た目は普通なのに。このような集落が20キロ圏内も含め、いくつもあるのだろう。津波被害と違って、被害が目に見えないだけ、また、人為起源であるだけに、「事故さえなければ」という理不尽さが感じられた。

↑で、県道に合流し南相馬市へ。車通りの多い道に合流したときの安心感がとてつもなかった。市内は海岸沿い以外は一見普通の生活が行われているようだったが、ラジオをつけると放射線量や賠償金の請求方法、通行止め情報などを流す復興専門のチャンネルが流れており、まだまだ通常の生活に戻ってないことが分かった。街中には「がんばろう南相馬」がいたるところに掲げられていた。

↑20キロ圏北端に到着。なにやらカメラなどの機材を持った外国人のグループが集結していて、これから内部に突入するような雰囲気だった。「取材」という名目なら入れるのかな?日本のメディアは20キロ圏内のことを全然報道してくれないから、頑張って伝えて欲しい。20キロ圏の外ですら、これだけ悲惨なのだから。その後、相馬市から仙台市にかけて、海岸線沿いに北上を試みるが、津波でめちゃめちゃになっていて、道路が水没・陥没・工事中で通行止めだらけ、暗くなってきたこともあって難航。ところどころ6号線をつかってワープしつつも、なんとか仙台までたどりつく。暗くてよく分からなかったが、とてつもなく広い範囲が津波で無くなったことは分かった。

↑で、仙台市街を散策。実は仙台は初めてだった。どこにでもある日本の都市の風景だった。違いを感じるとすれば、人々の話す言葉がなまっていることと、車が曲がったり車線変更したりするときにウインカーを出さない習性があることかな。高速では突然割り込んでくる車が多くて神経を使った。

↑で、翌朝。松島を眺める。

↑そして石巻市へ。まず上から見ようと思って最初に丘までいったのだけど、そこに広がっていたのはニュースで見たのと同じものだった。

↑とてつもないがれきの山。街を元に戻すためには、この量の資材が必要だということだ。途方に暮れる。

↑で、下に降りてみる。家があった証拠がかろうじて残っている場所。ほとんどの場所は、そこが何であったのかを想像することが出来ないくらい何も無くなってしまっていた。

↑ガラスに残る水の跡。身長以上の水が襲ってきたようだ。

↑ここには人が住んでいた。どうなっても自分の家で暮らすことが最高の選択なのだという気持ちはよく解る。

↑1階の住人は撤退してしまったいたが、2階では普通に人が暮らしているようだった。ここでも、去る人と残る人が分断されてしまった。ここでは、残れる人のほうが圧倒的に少ないみたいだった。

↑見えづらいけど、電柱の後ろに「がんばろう石巻」と書いてある。ちなみに、関西では「頑張ろう日本」関東では「頑張ろう東日本」だけど、東北までくると「頑張ろう東北」「頑張ろう福島」「頑張ろう宮城」なんかが出てくるようになり、本当に壊滅してしまった場所では「頑張ろう浪江」「頑張ろう雄勝」さらに「頑張ろう○○何丁目」みたいのまで出てくるようになる。これをみて、関西の「頑張ろう日本」がいかに当事者意識の欠如した茶番なのかを考えさせられた。もちろん、西日本だって頑張ってないとは言わないし、「頑張れ」とは言えないから「頑張ろう」にしているのだろうとは思う。だけど、本当に頑張っている人たちの言葉は重みが違う。被災地で、これを見るたびに鳥肌が立ちそうになった。こんな状況でも頑張ろうとしている人達に。

↑正直、石巻まで来た時点で、目で見たものを脳で処理し、理解することができなくなってしまっていて、精神的にきていた。また、地元の車と工事の車しか居ないような場所で、他県ナンバーの車でうろついて良いものかというためらいもあった。が、「ここまで来たのだからもっと見なければならない」という義務感を理性で捻出し、さらに海岸沿いを北上することにした。

↑こんなに高い場所に建っている家でも、一階部分が破壊されていたりする。20mとか、本当にそういうレベルの水の壁が来たのだろう。

↑一方で、すこし高台に上がれば、通常の風景。本当に、津波さえなければ、地震だけなら大したことはなかったはずだ。ここから少し下れば壊滅地帯が広がっている。ここに住んでいる人たちは複雑な心境だろうと思う。



↑女川・雄勝を通り、南三陸町へ。この区間はリアス式の海岸を下るたびに壊滅状態の町が広がっていた。ところどころに、魚釣りをしていたり、魚を売っていたりする人もいたけれど、それ以外のほとんどは工事関係の人達で、もともと住んでいた人たちはみんな別の場所に移ってしまったみたいだ。

↑で、報道でも多く触れられていた志津川に来た。がれきの片付けもだいぶ進んでいて、何も無い感じが強調されていた。

↑のこったがれきを良く見ると、食器の破片や錆びた文房具なんかが転がっていて、人が住んでいた場所だということを思い知らされる。

↑水没してしまった道。何も無さ過ぎて、もはや前の状態が想像できず、悲惨さを感じることすら出来なかった。いや、あまりに衝撃的な風景が広がりすぎていて、心が麻痺していたといったほうが適切かもしれない。スマートフォンを出して、googleストリートビューで過去の町並みを参照することによって、前はここに家があったのだ、店があったのだ、と想像しようとしたけれど、頑張ってもできなかった。

↑奥に見えるのはがれきの山。一つの町がここに捨てられていると思うと、じっと見ていられずにはいられなかった。

↑一体どういう力が加わったら車がこんなになってしまうのだろう。


↑かつて陸だった場所と3階まで破壊された建物。ここまで非可逆的に破壊しつくされたら、なにをどうやって「元に戻す」のかすら思いつかない。「復興」というけれど、残念ながらもう元に戻ることは無いと思う。想像もできないことだけれど、このような町が、岩手県の北のほうまで、延々と続いている。そんな町で、今、残っているものは、生き残った人たちの意思と、そのつながりだけだ。だから、町がどのような形になるのであれ、残されたそれだけを、最大限に反映した街を作っていくことが目指すべき向きだと思う。

↑その後、志津川から陸側へ走り、登米市栗原市経由で高速インターまで。栗原市震度7が観測された場所だけれど、ところどころで道路が凸凹していることと、写真のように家の壁が崩れているところがあるのを除くと、地震の爪あとを探すのが大変なくらい普通の生活が行われている。繰り返し、津波原発事故さえなければ、と思った。

↑帰りは東北・磐越・北陸・名神経由で滋賀までぶっ通しドライブ。のはずが、途中新潟で仮眠をとったところで朝になってしまっていた。本当に眠かったらどんなに狭い車内でも車中泊できちゃうことが判明。雨の日の夜のサービスエリアって良いよね。


 でまぁ、昨日帰ってきたわけですが、精神がとてつもなく疲れていて、未だに感情の整理が出来てない状態。いろいろ考えすぎたせいか、頭痛もひどい。一言で言うと、見てきたものに解説が付けられずに苦しんでいる状態なのかなと思う。が、この時期に、無理をしてでも行ってきたことで、今回の震災に関する理解は格段に深まった。実際に自分の足見てくることで、ニュースでしか見れなかった地名の地理的な感覚もつかめたし、ニュースになっていない場所でもかなりの被害が出ていること、そしてその範囲がとてつもなく広いこと、さらに、最近震災の報道が少しずつ減ってきている一方で、未だにがれきの片付けすら済んでいない現状があるのだということを理解することが出来た。今回は時間が無くて「人」という視点が少なかったのだけれど、自分が景色をみて勝手に感じた感想と、実際に避難している人たちが持っている感想は違うだろうから、時間が出来れば、今度はボランティアにでも行って、地元の人たちとも話をしてみたいと思った。「現場見てきたぜ」ってドヤ顔したところで何も産み出してないしね。今回感じたことをいずれどこかで役立てたい。
 いまとにかく、精神が異常値を示していて、一方ではこのショックをしっかり咀嚼して受け入れなければならないと思いつつも、一方ではやらなければならないこともあるので、ひとまずは学校に行き、無理やり日常に引き戻されることで、冷静に考え直せる精神を取り戻そうと思います。