会社員を辞めて博士課程に出戻って半年たちました


明石海峡大橋

なにやら以下の記事にかなりの反響をいただき、突然普段の1000倍くらいのアクセスがあり、驚いております。
会社員を辞めて学振をとるということ - 日記なんで。

 会社を辞めて学振をとって博士課程に出戻ってきてちょうど半年が経ったわけですが、今の心境はというと「驚くべき後悔のなさ」です。自分でももう少し後悔していると思ってたんすけどね。やっぱり僕は研究者に向いてる。とにかく毎日がワクワクの連続で、本当に研究って面白いなーと思う。世界を相手に新発見を探求していく知的興奮、試行錯誤に寛容なアカデミアの文化、周囲のライバルや仲間の志の高さ、どれも会社員時代にはなかなか味わえなかった楽しさだ。僕は将来もアカデミアに残りたいと思っているけど、僕の研究分野でもポスドク問題はシビアで、常勤のポストはますます絞られ、天文学的に優秀な先輩が職探しに奔走している姿を見て苦しい気持ちになることもある。だけど、そうやって先が見えなくていつまでも冒険し続けなければならないこと自体、死ぬまでに鳥肌を立てたり涙を流したりする回数が多いほうが豊かな人生だと思っている僕にとっては面白いことだと思っていて、一回きりの人生、一つの会社に捧げるよりも、アップダウンがあるほうを選んで良かったんじゃないかなと思う。もちろん、こういう考えの人間は少数派であることは自覚している。もし100人で無人島に取り残されたとしたら、僕は新たな可能性を求めて大海に漕ぎ出す5人くらいの冒険者(半分はその後死ぬ)のほうに入るのだろうと思う。

仕事の進め方の自由度の高さも魅力だ。これは学振DCの最大の特権だと思うけど、

物事の優先順位が、案件の金額や、上司・顧客の意向ではなく、自分の意思で決められる

ということが最高に心地いい。大学とも学振とも雇用関係が無いことになっているというのは本当に搾取なんだけど、だからこそ自分の申請した研究テーマに100%のリソースを割くことができるという側面もあったりする。良いように言えば、学振DCの学生達は、「生きるか死ぬかギリギリの金と最大の自由を与えることで、どんな化けの皮を剥いでくれるのか」ということを試されているのだと思う。ポスドクになったり、常勤研究者になったりすると、雇用主や上司には逆らえなくなるから、優先順位を自分の意思で決めるのはどんどん難しくなる。本当に、今が一番自由で、一番可能性を拡大できる最大のチャンスだ。
 「正しい努力」。天下一品の総本店(聖地)に掲げてある、創業者の木村勉社長の言葉だ。僕はこの言葉がとても好きだ。短い言葉の裏に「間違った努力もある」という、手厳しい、成功者のメッセージが込められていると思う。舵を握るということは、当たり前だけど、成功も失敗も全て自分の責任であるということだ。単に一生懸命やれば成功するほど甘い世界ではない。自分の意思で優先順位をつけられるという、贅沢な環境と、その重みを感じながら大海に漕ぎ出したい。

 ちなみに僕は会社に一度就職したことも、後悔していない。もう一度人生があっても、修士で「一度研究の外に出て考えよう」と考えて就職し、3年くらいで「やっぱり研究が良いよね」となって戻ってくる人生を歩むと思う。結局、「人生の岐路で、将来後悔のしようが無いくらい迷ったかどうか」ということに尽きるのではないか。そうするしかない、という強い意志があれば、絶対に飛び降りたほうが楽しいし、後悔はないはずだ(それでも失敗する可能性はあるということは考えておいたほうが良いと思いますが)。

お金が無くても、無くしてはならないもの

 ところで、最初に会社を辞めてアカデミアに戻りたいという話をしたときに、100%歓迎してくれた研究者は僅かで、ほとんどの研究者が「安定して高給の職を捨ててこちらに来るなんてとんでもない」という反応だった。僕はこれが一番悲しかった。研究者ってホンマはめっちゃカッコいい職業だと思うんです。子供のあこがれの職業で常に上位だし、なんだかんだで世間的には尊敬の対象だし、大発見ができれば世間を賑わしてヒーローになることもできる。それなのに、戻ってこようとする人間に対し、自分の選んだ道を否定するような発言をするなんて、この業界の将来はどんだけ荒んでるのだ、と思った。
 それでも僕が戻りたいと思えたのは、数少ないながら「うっひょー研究めっちゃ楽しいし、茨の道だけどそれも楽しい!」という人達がいたからだ。とくに30代・40代になってそれを言える人達は、本当にカッコいいし、自分もそうなりたいと思った。「憧れ」と言ったらなんかダサいけど、それって結構大事なんじゃないかなと。確かにお金も安定もないけれど、この楽しさやワクワク感は、科学の最大の醍醐味であり、原動力だ。決して無くしてはならない。ただでさえ「やりがい搾取」なのに、「やりがい」すら無くしたら単なる搾取ではないか。なので、少なくとも僕は、進んでくる後輩に「めっちゃ楽しいで!金ないけどな!」ということを言えるように頑張りたいと思う。件の記事も、「もどるのはやめたほうがいい」ということが言いたいのではなく、「考えたうえで選ぶべき」ということを自分なりに書いたつもりだ。

さいごに

 改めて、件の記事(3か月前)を読み直すと、「今の自分にはそこまで激しいこと書けないなぁ」という感想で、自分も少しずつ、アカデミアの金銭感覚に洗脳されつつあることを自覚しました(自腹出張なんかも普通にやるようになってきたし、、、)まさに「会社員を辞めて、博士課程に戻ってきたあの時だからこそかけた文章」なのだと思います。もっと「好きなことやってんだから贅沢言うな」というコメントが多いかと思いましたが、ほとんどが同意・応援のコメントで、大変励みになると同時に、「やっぱりおかしいと思ってくれる人が多いんだな」ということに安心と自信を得られました。これからも頑張ります。

夕日@敦賀

一生懸命はダサい


飛騨の森

 「意識高い系」という、高みを目指す人を揶揄する言葉があるけど、面白い言葉だ。「一生懸命取り組んでいる人を小馬鹿にするな」と怒る人もいるけど、人が必死だったり一生懸命だったりする姿ってどうしても「ダサく見えてしまう」ものなんだと思う。
 だいたい、自分が一生懸命やっているつもりになっていることのほとんどは、後で振り返ってみると「大したことない」ことだったりする。まぁ、できるようになったあとに、できなかった頃の自分を振り返るわけだから、「大したことない」のはある意味当然なんだけど、重要なのは「本当のゴールを見据えて努力できているか」ということなんじゃないかと思う。
 中学・高校・大学時代と、振り返ってみると、本当に学校でトップレベルに勉強やスポーツができるやつは、淡々としているやつが多かった。一生懸命な様子やストイックな様子をあまり見せず、黙々と勉強や練習をこなしていて、本番では安定してぶっちぎりの成績をおさめる、というタイプが多かった。彼らは、決して努力をしていなかった訳ではなく、努力を向ける先を、目の前の小さな問題ではなく、本当に成し遂げるべき大きな目標に全て集中させていたのだと思う。

 今自分が取り組んでいる問題は、大きな目標に向かうための1ステップでしかない、そんなに大したことじゃない

という意識で、目の前の出来事に淡々と、労力をかけ過ぎず、しかし抜かりなく取り組み続けた結果、本当の目標に真っ直ぐ進んでいくというやり方だったのではないだろうか。
 対して、大したことが無い目の前の問題に、必死に、一生懸命になるのはダサい。大きな目的ではなく、目先の手段にとらわれているように映るからだ。目的に向かうための自分の熱意に自信が持てないか、目的に向かうための戦略が立てられないのをごまかすために、一生懸命に高みを目指す自分の姿に安心しようとしているように映る。
 本当に必死になるべきは、ぶれない目標を立てて、それに向かうための戦略を正しく組立て、計画通りに自分を律することなのではないか。そして、そういう必死さは、自分に向いているから、他人の目に触れることはない。だから、外から見ると、「淡々とこなしてすごい成果をあげる人」という風に映る。本人は、「当たり前のことをやってきただけなんすけどね」というけど、裏ではすごい計算しまくって、どうやったら本当の目標に早く近づけるかを考えまくっている。そして、無駄なことに労力を割かない。道中で壁にぶつかりそうになっても、本当の問題はその壁ではないことを分かっているから、どう目標に到達するかだけを必死に考える。そして、気づいたら壁を過ぎている。そういうやり方のほうがカッコいいし、早く目標に到達できると思う。
 自分の努力を表に出す奴は、自信が無いやつで、悩んでばっかりで、なかなか前に進めない。そして面倒くさくてダサい。個人的には、小中学の教育で、「努力を人に見せることは良いこと」という考えを刷り込んでいることが、この手段と目標を取り違える人間(意識高い系)を量産しているように思う。なんだったんだろう、あの空気。
 大きな目標に向かって、無駄な労力を割かず、淡々と真っ直ぐに進んでいく、クールな姿が理想だ。一生懸命になっている自分に気づいたら、「いやそれ本気出すとこか?」「本当の目標はなんだ?」と常に問うようにしたい。
 「意識高い系」という言葉は、そんなに悪い言葉じゃないと思う。人に向かって使う言葉ではないけれど。

東京は腹が立つ


通勤風景。滋賀の田園に住んでいます。

 出張で1週間ほど東京にきている。3か月弱の滋賀の田舎暮らしを経て、改めて、3年間住んだ東京を眺めてみる。スーツを着た会社員が満員電車に乗ってシステマティックに移動している。テレビでおなじみの地名、テレビでおなじみの会社がそこにある。「日本の政治・経済を動かしている現場がまさにここなのだ」という、3年前に初めて東京に来た時のような感覚になる。3年前と違うところといえば、電車の発車メロディーを懐かしく感じてしまうところか。
 今回は学会に参加する目的で東京に来ている。だから会社員時代以来のスーツ姿だ。そして満員電車に乗って、学会会場の大学に移動している。目の前の会社員と、見た目は全く変わらない。だけど、中身は全然違う。向こうは会社員で会社のために働き、稼ぎを生み出している。僕は学生で、勝手に研究をしているだけだ。システマティックに動きまわり、日本の中心でグルグルとお金を回している彼らからは、「俺は一人前に働いているのだぞ」という自信が伝わってきて腹が立つ。そして被害妄想なのだけど、劣等感を感じる。稼いでない学生ですみません。
 みんな大学を出たら、就活をして、企業に就職する。それは「正しいから」ではなく、「間違っていないから」でしかない。間違っていない選択肢は安心できる。僕は中学・高校・大学とかなり勉強をして、それなりの選択肢を選んできた。それは勉強をして、いい学校に行くことが「間違っていない選択肢」だったからだ。そして就活でも、やりたい仕事を手掛ける会社で国内最大手を選んだ。そこで3年間働いてきたことは、「正しいかどうかは分からない」が、「少なくとも間違っているはずがない」ことだった。そして「俺は一人前に働いているのだぞ」という無意識の自信と安心感に僕は浸っていた。
 研究者は変人が多い。研究者は会社で働いたことが無いから「社会不適合者」だ、と言う人もいる。だけど僕は「会社で働いたけど辞めて研究者に戻った」という点で、希少な「ホンマモンの社会不適合者」だ。もう、日本の中心でぐるぐるお金を回し、テレビニュースの話題を身近に感じながら、「間違っていないこと」に安心しながら生きていくことを期待する権利はない。それを求めてはいけない。「間違っているかもしれない」恐怖と劣等感を拭いながら、自分の決めた道を進み、自分の力で「俺は一人前に働いているのだぞ」を手に入れなければならない。
 僕は今、滋賀で貧乏暮らしをしていている。だけど、稼ぐことに追われて始発から終電まで働くこともなく、自転車で田園風景の中を出勤し、好きな研究をやって、帰り道には毎日ホタルが見れて、気が向いたらナマズ釣りをして帰っている。体の主成分をコンビニ弁当で構築しなくても、3食自炊して、毎日美味しいものを食べながら、月1万円台の食費でやりくりしている。日本の中心にいないし、お金も回していない。だけど幸せだ。これが実現できている。これを、東京の奴らに思い知らせてやりたい。だけど、今、喫茶店でサラリーマンと同じ格好をしてこれを書きながら、目の前でシステマティックに商談しているサラリーマン共を見ると、やっぱり劣等感なのだ。そして、将来が不安になる。腹が立つ。早く滋賀に帰って、東京を忘れて、幸せをかみしめたい。

会社員を辞めて学振をとるということ


明神池@上高地

 会社を辞めて学振を取って博士課程に出戻ってくる、という選択はかなりレアなキャリアだと思う。僕も進路に迷っていた時にネット上を色々と検索してみたけど、そういう前例はほとんど見当たらなかったし、リアルでも「そんな(アホな)ことするやつ初めて見たぜ!」という意見しか聞かなかったので、やっぱ相当にレアだし、アホなんだと思う。文科省は「研究者のキャリアパスの多様化」とか言ってるけど、戻ってくるための手ほどきや支援など特になく、独力の実力勝負で戻ってくるしかなかった。やっぱりストレートで修士で上がってくる人と比べると、色々と違いを感じることがあるので、実際にやってみてどんな感じだったか、簡単に書いてみる。

申請書提出まで

 学振とは、文科省下の日本学術振興会の「特別研究員」制度のこと。ネットで調べれば情報はいくらでも出てくるけど、博士課程の学生を対象にするタイプ(DC)の場合、月20万円の生活費と年100万円弱の研究費を得ることができる。これがとれなければ生活費も学費もアルバイトしながら自腹で払うことになるので、博士課程を目指す人間はほぼみんな出しているんじゃないかと思う。
 そのくせ採択率は20%強でなかなか狭き門なのだけど、採択をされるためには、申請書の内容もさることながら「業績の有無」が一番重要だと言われている。僕の場合は、修士を出て会社に入る直前に論文を投稿し、社会人1年目のゴールデンウィークに査読への対応と再投稿をし、夏ごろには論文が受理されたという状況だった。修士から直接学振に申請する場合は、修士2年の春に申請書を書くことになるけど、その頃の僕はまだ論文がなかったので、「修士論文を投稿して受理されたものも業績にできる」という点では、1回外に出て出戻ってくる人間のほうが有利だと思う。
 そんな状況で、社会人2年目の冬くらいから「会社員向いてないかも」とウダウダ考えはじめ、3年目にはいる直前に、学振(DC1)に申請することを決意した。6月頭が申請の締め切りだったので、4月初旬から、平日の帰宅後や休日をつかって、少しずつ申請書の叩きを作り、ゴールデンウィークを数日潰して一気に書き上げた(スターバックスには大変お世話になった)。余談だけど、会社生活で資料作りの能力が格段に磨かれたおかげで、申請書の作成時間は、一般的な修士の学生に比べると1/2〜1/3くらいでできたと思う。「こだわりすぎず、無い時間で最大限効率良くやる」という考え方は、会社員を経験したことで得られた武器になったと思う。
 申請書を書くのにはかなり苦労した。修士を出て、研究から2年も離れていたうえ、学外のネットからはオープンアクセスの雑誌以外は読むことができない。修士時代に読んだ論文をプリントアウトしたものを家に置きっぱなしにしていたことが、奇跡的に役だった。黄色くなった紙束をクリアファイルに入れて行き、何度もスタバで読み漁った。久々に英語の論文を読んで、それを消化し、自分のストーリーを加えて申請書を書くというのは大変な作業だったけど、それを書きながら研究の将来を考えること自体が、時間を忘れるくらいにワクワクすることだったので、自分の行先はここで間違いない、という気持ちをさらに強くすることになった。最後に、先輩の研究者2名にお願いをして、査読してもらい、もらったコメントを反映して、完成させた。この2人には感謝しきれない。
 ところで学振(DC)に申請を出す場合、大学院に入学することになるので、受け入れ指導教官を指定し、推薦状を書いてもらう必要がある。僕は、修士で所属していた研究室と同じ研究室を選んだ。本当は、他にも興味がある研究室はあったし、人脈や仕事の幅を広げる意味で、修士とは別の研究室のほうが良いとも思っていた。だけど、それをしなかったのは、「学振に落ちたら博士にいかない」と決めていたからだ。一度社会人として独立した後に「今さら学費も生活費も全部自腹で大学に通う」という選択は、どうしても考えられなかった。研究は好きだけど、学振の給料ですら少なすぎだと思っていて、退職して飛び込む自分のアホさ加減にうんざりしているのに、無給でも研究やりたい、と思えるほどアホにはなりきれなかった。別の研究室に行くのに、「学振に落ちたら進学しません」という条件付きで推薦状を書いてくれ、とは言いにくい。だから、別の研究室に行くのは諦めた。幸いにも修士の頃の指導教官は、自分の考えを理解してくれ、推薦状を書いてくれた。
 そして5月中旬、もろもろの申請書類を一式そろえて提出。このときも、受け入れ先の研究所の事務員の方が知っている人だったおかげで、色々対応してくれ、とても助かった。

採択〜退職まで

 申請書を提出後、結果が出る10月まで、学振のことはあまり考えないで暮らした。会社で異動があったりして、ばたばたしているところで、ある日突然「第一次選考結果の開示について」というメールが来ていることを発見。結果は、面接なしの内定。早速、指導教官とお世話になった人にお礼の連絡をし、退職に向けた作戦を練る。普通会社を辞めるときって、次が決まってから数か月で辞めると思うんだけど、僕の場合は辞めるのが半年後の3月なので、打ち明けるタイミングが難しかった。12月とかに辞めて3月までは無職というのも考えたけど、やっていた仕事の納期が年度末に集中していたことや、少しでも会社員という経験をしておきたい、という気持ちから、3月まで働くことにした。
 一応、大学院に入学するので入学試験を受けなければならず、1月からは願書提出など、大学との事務手続きで忙しくなる。大学は関西になるので、東京から大学事務に直接行くわけにもいかず、電話と手紙を駆使して奔走。大学の制度って会社とかと比べると本当に融通が利かなくて腹が立つけど、事務員の方が協力的だったおかげで助かった。
 2月中旬に試験があったけど、学振に受かっているので入試で落ちることはないだろうと思い、ここも会社員仕込みで資料作成など省エネで臨んだところ、試験が予想以上に形式ばっていて、「フランクすぎる」と注意を受ける・・・が、なんとか合格。ここは反省。この院試で関西に行ったタイミングで、引っ越し先なども全部決めてきた。
 3月になり、正式な合格通知が来たので入学手続きを済ませ、31日付で退職、引っ越しし、4月1日から晴れて大学院生となった。

会社員から学生になってみて

 「会社員を経験したことが他の院生と差別化要因になっているか」という問いに対しては、間違いなく「イエス」だ。特に、「こだわりすぎないで時間内に成果を出す」というところや、「アウトプットの質・量を重んじる」というところは、周りよりも意識できていると思うし、僕自身も修士の頃と比べると成長できていると思う。また、研究には関係がないけど、経済や政策をはじめ、世の中で起こっている全体に対する感度は、会社で色んな業界を見てきている分、確実に他の院生よりも高い。今はとにかく自分の専門を深めるところだけど、研究をしながらも、他業界との橋渡しのような役割をいずれ持てるようになれればと思っている。
 一方で「それは3年のビハインドを許容してでも得るべきものだったか」という問いに対しては、答えは難しい。ストレートで博士課程に進んだ、修士時代の同期は、学位を取って外に飛び出すタイミングだ。研究のキャリアも僕より3年長いし、その分間違いなく専門性を積んでいる。かたや僕はこれから学位をとるのに3年を費やさなければならない。3年って長い。20代が終わってしまう。3年後に、僕は彼らと同じくらいのポジションに立てていられるだろうか?はたして僕が選んだ道は「寄り道」だったのか?それとも「急がば回れ」と言えるのか?正直、残念ながら、やってみないと分からない、としか言えないところだ。

一番思うこと

だけど、そんなことよりも、会社を辞めて、学振を取ろうとしている人がいるとしたら、一番これが言いたい。

超絶ブラック、マジで金ないですよ

修士から上がってきた院生と話していて、会社から出戻ってきた僕が一番違いを感じるのは、金銭感覚だ。学振の給料は、月20万だ。ボーナスは当然ない。莫大な額の授業料(おそらく半額免除になるが)を払わなければならないし、会社員の感覚からすると信じられないが、研究に必要な備品でも、個人が使用するものは研究費で購入できず、自腹で買わなければならない(白衣、作業着、文房具など)。
それなのに、修士から上がってきて、学振をとった院生は「研究しながら月20万円ももらえるなんてすげぇ!」と喜ぶ。僕からすると「こんなに優秀な研究者の卵を月20万円で働かせるなんて日本の科学教育すげぇ!」だ。それまで無給でアルバイトや親の仕送りに頼ってきた学生の目線からすると、月20万円は大金なのかもしれない。だけど一度会社で働いて、社会でどれくらいの能力の人間がどれくらいの給料をもらっているのかを目の当たりにすると、朝から晩まで働き、10年後の日本のアカデミアをリードする人間のほとんどが含まれているであろう彼らに、たったの年収240万円しか払わないなんて、なんたる搾取かと思う。そうでなくても、ほとんどの大学院生は、法外な授業料を払い続け、途方にくれる額の借金(なぜか名前は奨学金)を抱えているというのに。
 さらに学振は「申請テーマの研究に専念すべし」という名目で副業を全面禁止する一方で、「これは雇用関係ではない」という名目で、社会保険や年金は一切ないという、違法としか思えない論法を展開する。優秀な人間こそ、複数のプロジェクトを掛け持って、どんどん周りを巻き込んでいくべきだと思うし、そこから得られるインセンティブにも与ってしかるべきではないか。若手の段階で身分が縛られることのコストは大きいと思う。
 「好きなことやって税金で食わしてもらってんだから文句言うな」という人もいる。確かに科学(とくに基礎研究)は先の長い投資なので、自力では稼げない。税金で食わしてもらっているし、それには感謝しないといけない。だけど、研究者は決して「儲からないことに興味を持ってしまった変人」ではない。その結果が、数年後、数十年後、もしかしたら本人が死んだ後に、人類全体の役に立つかもしれない。そんな科学が、「自分を安売りしても研究したい」という人たちによって支えられているとしたら、なんとも脆弱ではないか。研究者は、子供がなりたい職業の筆頭だったんじゃなかったのか。
 僕自身、研究への興味はかなり強いほうだけど、今自分をすごく安売りしていると思っているし、これが耐えられるギリギリだと思っている。僕よりも研究への興味が少ない人は、耐えられなくて辞めていくだろうし、僕自身も、研究への興味が弱くなったり、給料がこれ以上下がったらさすがに辞めてしまうと思う。
 おそらく、会社を辞めて学振をとりたいと考えるような人は、僕と同じで、研究に未練があって、それなりに自信がある人だと思う。そして、それなりに優秀で、今の会社で比較的稼げていて、でもやっぱり物足りない、と思っている人なのかもしれない。けど、そういう人がいれば、言いたい。それくらいのことを考えている人はいくらでもいるのだと。そして、本当に大変なのは、そこから覚悟を決める勇気、実行する行動力、そして「自分を安売りしても研究がしたい」という気持ちを確実なものに固めていくことだと。修士の頃に見えていた「学振像」と、会社に勤めてから見える「学振像」は全然違う。憧れだけで選んではいけない選択肢だと、少し考えればわかる。それでもどうしても、それ以外の選択肢を考えられないという人は、行動を起こすべきだ。
 最後に、会社を辞めて学振をとることのデメリットをもう一つ。収入が激減するけど、税金関係は昨年の年収を基準にされるので、1年目は本当につらいです。家賃3.3万(駐車場込)、食費2万、授業料が半額免除、年金の納付特例が認められたとしても、国保+住民税で7.5万、学費(入学金+授業料を月割)が4.5万、家賃+光熱費+通信費が4.5万、車維持費(ガス税金保険込で月割り)1.5万、奨学金返済が1.2万、食費2万で計21.2万円で赤字です。飲み会や結婚式に誘われたり、車が故障したり、病気になったりしない想定で、これです。車持っていること以外は生活保護以下の水準かと。それでも研究がしたいと思えるのなら・・・それは間違いなく、行動に移し、命を懸けて科学の発展に尽くすべきだと思う。

おもんない日記


きんぎょ@すみだ水族館

 今の環境にだいぶ慣れて、会社にいた頃の生活を色々と客観視するようになってきた。あらためて、異常な待遇だったと思う。仕事の難易度やリスクは今やっている研究よりも正直下なのにもかかわらず、ものすごい金額をもらっていたし、年金保険全て自分で払うようになった今から思えば、社会保険が完備されているというのはとんでもないことだった。そのうえ、確定拠出年金なるものまで自動的に積みあがっていた。あのままあそこにいれば、会社がつぶれない限りは、何不自由なく裕福な暮らしが送れたのだろう(つぶれない保障はまったくないけど)。「お金の回っている世界」で働くというのは、そういうことだ。仕事の難易度やリスク、もちろん「やりがい」とも、報酬は比例しない。「需要」こそが、仕事の価値を決めるのだ。
 だけど、僕は後悔していない。いや、表面的に考えると、なんて馬鹿なことをしたのだ、と思うし、何度もそれを考える。だけど、もう少し想像を働かせて考えると、やはりどうしてもあの環境を受け入れてあのまま歳をとっていく自分が想像できない。当たり前のことを当たり前にやる、当たり前のことなんだけど、どうしても退屈に感じられて、「このままここにいて自分は何が出来るようになるのだろうか」という不安がどんどん増大していた。それでいながら「平凡な人生で終わらせてたまるか」という、根拠の無い自信も増大していた。いずれにしても、飛び出していたのだろうと思う。そして飛び出す先として、今の環境は、理にかなっていると思う。儲からないことに興味を持ってしまったのだから、こうするしかなかったのだ。
 しかし、まだ思っていたような成果が出ていないのも事実だ(まぁ、そんなに早く結果がでるわけないのだけど)。とにかく今はアウトプットを出すために、ひたすら実験をやっているけど、結果が出なかったらどうしようか、変な結果が出たらどうしようかと、とても焦っている。早く、1報目の論文を出し、夏から秋に開催される学会で一通りの人脈をつくり、自分がこの世界で生きていけそうだという自信を持ちたい。もやもやしたまま、募る「アウトプット欲」が行き場を失った結果が、この何の示唆も無いおもんない日記だ。

お金は目的でなく手段


たまには風景以外の写真@スカイツリーにて


新しい環境になって一月経って連休も過ぎて、ちょっと熱が冷めて落ち着いてきたこの頃です。本業の研究は、まぁまぁ順調に進んでいます。仕事のやり方だけど、修士時代の自分と比べて、会社を経験したことで、変わったところもあれば、変わらなかったところもある。また、会社時代には見えてなかったけど、新しい環境から振り返ってみて、見えてくるようになってきたこともある。忘れないうちに書いておく。

会社を経験したことで変わったこと

お金のことにうるさくなった

これは自覚もあるし、周りにも言われる。社会に出て、お金のパワーというのを実感するようになり、「お金がないと何も出来ないし、お金を引っ張ってこれないとダメ」という考えを強く持つようになった。前いた会社では、金にモノを言わせて短時間で成果を出すこと自体が価値、みたいな仕事をしていたので、余計にそう感じるのかもしれない。研究者だって、研究費ないと仕事できないし、考えとしては間違ってないと思うけど、必然的に金に結びつきにくいことには手を出さないようになるわけで、自由な人が多い研究の世界の中では、ドライな人間に分類されるんだろうなぁと思う。

単純作業がストレス

これは重々想像されていたことかつ、贅沢な悩みなんだけど、会社にいたころは、単純作業をアシスタントや外注にお金を払ってお願いできたのが、今は単純な実験、試薬調合、計算作業、資料のレイアウト調整、実験器具洗いまで、当然自分の手でやらなければならない。これらは正直、自分でなくても数時間訓練すれば誰でも出来るような作業ばかりなので、できれば誰かに手伝ってもらいたいのだけど、当然それは、お金が無いとできない。これがストレス。「こんなの俺の仕事じゃない」と言うと傲慢だけど、「難しいところは俺しかできないのだから、それ以外の部分はできるだけ分担して効率的に進めるべし」と言えば、間違ってないと思うし、少なくともコンサルタントの場合は高い報酬をもらっているので、むしろそれだけのプライドを持っていなければならなかった。同じように研究者だって、世界一を目指そうとしているのだから、人に作業を任せなければならないくらい、難度の高い仕事に集中できなければ、生き残っていけないのではないか。そしてこれをするためには、やっぱりお金が必要だ。やっぱりお金をひっぱってこれないと勝てない。

会社を経験しても変わらなかったこと

田舎が好き

今、この文章を近所の田んぼから聞こえてくるカエルの合唱を聞きながら書いている。東京に行く前、「しばらく住めば慣れるかな」とか思ったけど、やっぱり最後まで人ごみが苦手だったし、今こうして滋賀の田舎に住んで、毎日自転車で田んぼの中を通勤できるのが、すごく嬉しい。都会のほうが色々あって便利というのは確かにそうなんだけど、僕には選択肢が過剰すぎて、むしろ振り回されている感があった。東京のほうが人との出会いがたくさんある、という声も良く聞くけど、地方にいても、本当に会いたい人とはメールでコンタクトとって、直接会いに行けばいいし、実際そうしているから、特に困っていない。一度にそんなにたくさんの人と仲良く出来ないし、別にこれ以上出会いの機会を増やしたいとは思わない。のんびりと自分のペースで暮らせることのほうが自分にとっては重要だ。

贅沢しなくていい

会社にいたころはとにかく時間が無かったので、食事や移動手段など、とにかく「時間を金で買う」選択肢をとりがちだった。また平日に都心でストレスを溜めた分、休日は湯水のように金を使って毎週郊外に遊びに行っていた。僕はそれを「異常事態」だと思っていた。そのまま会社にいれば、その異常事態が通常になって、どんどんエスカレートしていたと思うけど、今こうして学生に戻ってみて、食事は自炊、移動は夜行バス、ストレスたまらないから休日も研究してる、という生活で、ほとんど金を使わなくなったけど、「やっと普通に戻った」と感じている。食えないほどお金が無いのは困るけど、そこそこの生活ができるんなら、そのなかで安くておいしい物を探す楽しみを感じたりしながら、幸せに暮らせる自信がある。これが自分に向いている。ただ、この3年間の「異常事態」のおかげで「足るを知れた」ことは良かったと思っていて、これは現状に満足するためには必要なことだったのかもな、とは思う。

会社時代に見えていなかったけど今感じるようになったこと

そもそも仕事はそんなに高尚なものではない

僕が会社の環境に一番違和感を感じていたのは、何度も書いているけど、「命を懸けて仕事している人がいない」ということだった。頑張ったって給料変わらない、むしろ頑張ると仕事増える、そして頑張らなくてもクビにならない、という会社員の世界に身を置き続けることに、ストレスと不安を感じて、飛び出してきた。行き着いた研究の世界は、望んだとおり、命を懸けて仕事をしている人ばかりだ。激しい競争のなかで、みな寝食を忘れてやりたい研究に打ち込んでいる。生活がかかっているから、妥協はない。今、その環境に身をおけて、楽しい。
だけど、そこから改めて振り返ってみると、世の中の大多数は「命を懸けて仕事」なんてしてないし、むしろ前の会社は、結構きちんと仕事をしていたほうだな、と感じるようになった。そもそも、仕事なんて、お金が動けばそれでいい。本質をとらえているかどうかとか、きちんとやりきったかどうかとか、たいした問題ではなく、本当の問題は、お金がもらえるかどうかだ。すこし乱暴な言い方をすれば、手段を選ばずとも、お金を動かす目的を達成できればそれで十分だし、むしろ互いにいい加減だからこそ、きちんと社会の隅々までお金が回っているのだと思う。それ以上を求めて、世の中全員が丁寧に仕事をしはじめたら、回るお金も回らなくなって、経済的にはむしろ悪影響ではないか。そういう意味では、前いた会社は、お金をとってくるというゴールに向かって効率的に仕事をしていたし、そのために、個々人がきちんと仕事に向き合っていたように思う。仕事の内容自体に対しては正直、「まだ限界まで考えてないのに」とか「顧客の期待値スレスレ攻めばっかりだ」と感じることが多々あったけど、きちんとお金を払ってもらって、リピートしてもらっていたのだから、それはその金額分の価値のある仕事だったのだと思う。会社にいる間は気付かなかったけど、立派に仕事といえるものを、ちゃんとやっていたんだなと、改めて思うようになった。
ただやっぱり僕は、こだわりを持って仕事にきちんと取り組んだうえで、それを評価してもらいたいし、そうしないと到達できないところまで行ってみたい、という考えは変わらない。そういう意味で、やっぱり僕は、会社員には向いていなかった、というか、会社員になりきれなかったのだと思う。

結局のところ僕は、

こだわって何かを成し遂げたい、そのために個人の裁量で努力したい、そして努力していること自体に安心したい。

というのが動機になっているようだ。
お金は大事だ。だけど、お金を目標とせず、手段としてうまく使いこなしながら、本当の目標に向かって自分を出し切るところに、楽しみを見つけてやっていきたい。

神様に頼るしかないこと


砂の島@いちおう東京都です

 先日、新しく引っ越してきた場所から3駅くらい行った所に用事があったんだけど、そこである会社のことを思い出した。社会人1年目の冬に、この駅で降りて、ヒアリングに行った、あるベンチャー企業のことだ。
 その会社は、当時「いよいよこれから本気出します」という段階にあって、小さい会社なんだけど、高い技術力を持っていて、世界中の照明の省エネに貢献する部品を開発し、売り込んでいく段階で、社長も国内外を駆け回って交渉にはげんでいた。それを見て僕は、世界が注目する製品がこんな小さな会社から生まれるなんてかっこいいし、頑張ってほしい。いいままで気付かなかったけど、こういう熱い人たちが日本にはたくさんいるんだ、すごいなぁ、と感心した。
 それから2年たって、その会社がその後どうなったか、改めて状況を調査するチャンスが回ってきた。向こうは確実に覚えていないだろうけど、こちらは社会人1年目で経験した「熱い出来事」として、その会社のこと、そこで聞いた社長の意気込みを鮮明に覚えていた。あの会社、どうなったかな。相変わらず、世界を相手に技術を売って戦っているのかな、と想像しながら、メールを送った。だけど、返事がなかった。もう一度送ったけど、やっぱり音沙汰はなかった。そこで、電話をかけてみることにした。すると、秘書の女性が出て、少し戸惑ったような声で、何の用ですか、と聞かれた。こちらが事情を説明すると、その人は、淡々と、今はもう活動をしていなくて、会社の清算に向けて、手続きを進めているところだ、調査に協力できなくて申し訳ない、と言ってきた。信じられない返事で、とても残念で、どう返したらいいか、言葉に迷っていると、その人は親切にも、話せるだけのことは話せます、と言ってくれた。けど、事業を辞めた会社のことを聞いても使うことができないので、大丈夫です、事情も知らず電話をしてしまい失礼しました、と言って、電話を切った。直後、猛烈に後悔をした。2年前に自分が直接話をしに行って、そこで心を打たれたこと、自分もうまくいくと思っていたが、悔しい結果に終わってしまい、本当に気の毒に思う、ということを一言伝えればよかった、と思った。会社員生活の最初と最後の印象に残った出来事として、これからもその会社のことは忘れないと思う。
 何が言いたいかというと、いろんなものを見るようになって、世の中は想像以上に、

自信があっても、本気でやっても、上手くみえていても、思い通りにならない悔しいことがたくさんある

ということを、強く感じるようになった、ということだ。ピカピカなのに閑散としているお店や、ガラガラで宣伝がもの悲しい観光地なんかに行く度に、これを始めた人は、当初は鼻息荒く漕ぎ出したんだろうな、と想像をしてしまう。起業はほとんどが失敗するというけど、失敗するつもりの人なんかいなくて、始める人は100%自信満々で命を懸けて始めているはずだ。離婚をする人も、結婚するときは死ぬほど幸せで自信満々だったに決まっている。世の中は、想像以上に、理不尽で悔しい結果にあふれている。正しい方向に努力をすれば夢は叶う、というのは信じているけど、正しくはない。それは、運という言葉でしか、残念だけど、説明できそうにない。
 儀式的なものとしか思っていなかった寺や神社へのお参りだけど、最近は、なんか気持ちを込めて祈ってしまう自分に気付く。神様に頼るしかないことって、思っていたよりも多いのかも。そう考えると、悔しいけど、気持ちがちょっと楽になる。