未来を想像し続ける仕事


超広角で大仏様を撮ってみた@東大寺

去年の4月に安泰な生活を捨て、暗中模索状態でここまで約9か月、本当に不安の中でやってきたけど、やっと論文投稿までこぎつけて、ようやく次のステージに進んだ感覚がでてきた。あとは査読を受けて、最速で3か月ほどで受理されるというところかな。
 まぁ、喜ぶのは論文が通ってからなんだけど、今はとにかく「計画→実行→アウトプット」という研究者としての1連の仕事を1周回せたことにとても安堵している。ここまでアウトプットが無かったことがとにかく辛かった。これまで心の奥底にあった最大の恐怖が「修士の頃に論文が書けてたのは、研究テーマやタイミングに恵まれただけのまぐれだったのでは」というものだった。「果たして3年も研究を離れていてキャッチアップできるのか?」ということも、すごく不安だった。改めて、自分の手でゼロから研究を組み立てて、アウトプットまで持って行けたことは、大きな自信だ。
 もう一つ、「一連の工程感がつかめた」ということも大きい。一通り論文の原稿を書き上げるまでに、どの程度のデータ、分析、インプットが必要なのか、という点だ。当初の想定よりも多かったところも少なかったところもあった。「論文なんて会社員時代の仕事スピードでかかればすぐに終わるっしょ」とか調子に乗っていて、確かにデータ分析やグラフ化の部分では経験が生きて二度手間を最小限に抑えられ大いに捗ったけど、論文書きとなるとやはり会社の仕事に比べて科学ははるかに厳密で、過去の文献を1つも漏らさず厳密に調べ上げる作業など、想定以上に時間がかかったとともに、僕が会社に入ってすぐに感じた「会社の仕事って適当だなぁ」という感覚を再確認できた。今回の経験を通じて時間感覚が精緻化できたことで、次の作戦がかなりクリアに描けるようになったと思う。
 ただこれは、ようやく入口に立ったことを示すに過ぎない。先を見ると、天文学的に優秀な研究者達が職を賭けてすさまじい競争を展開している。今、最前線で戦っているのは、僕の10年くらい上の世代だ。10年後には、自分もそこで戦わなければならない。自分はあと10年で何ができるだろうか?10年後には、どのような研究が必要とされているのだろうか?そう考えると、本当に時間が無いと思う。


 時間が無い中で何をすべきか?最近よく考えるのが、普通に前に進むだけではダメで、世の中の変化よりも早く前に進まなければ勝てないということだ。目先のことは考えないで、常に5年先、10年先、もしかすると30年くらい先の世の中を考え続けてないとダメなのかもしれない。前職が「当たり前のことを当たり前にやりきる」ことを得意とする会社だったこともあるのかもしれないけど、無意識のうちに「前例を踏襲して低リスクな仕事を確実にこなすことで価値を出す」という思想に染まっていたような気がする。それはそれで社会には必要とする人がいた、意味のある仕事だったけど、研究者はそんなことをしていたら即死だ。未来を想像しつづけなければならない、むしろ未来のために失敗することが許されている。
 年が明けて論文を書き上げてから、確実に自分の意識がシフトアップしたような感触がある。自分はもう少し色々挑戦してみてもいいのかもしれないし、それをできるのは自分だけかもしれない。なんだか調子に乗っているけど、それくらいやらないと、やれないと、生き残れないというのも事実だと思う。僕の研究は基礎科学だけど「役に立たない」とは言わせたくない。10年後、30年後に注目を集め、世の中の役立っているかもしれないものを先回りして見つけ出して、未来を変える一翼を担う研究者になりたい。

楽しくてしょうがない日記


ねこ@竹富島

 退職した人の常として、「辞めてよかったぜ!」と言いたいというのがあると思っていて、それはやっと外に出て自由にモノが言えるようになった解放感と、自分の選択を肯定したいという不安から来るものだと思っているけど、当人は本当にそう思っているつもりで言っていることが、往々にして無意識のうちに他人の生き方を否定して不快にさせているということがあるなぁと思っていて、あんまりリアルでは言わないように我慢しているのだけど(それでもちょくちょく言ってしまうのだけど)、まあせっかくこういう場所があるんで、思いっきり言わせてもらいたいのが、

マジで会社を辞めてよかったすぎる。毎日あり得ないほど楽しくてヤバい

ということだ。もっというと、

会社を辞めないという選択肢を残していた自分が本当に恐ろしい、危なかった

とすら思う。
 理由はとにかく「自分は研究者に向いている」ということでしかないのだけど、具体的には「辞める前に考えていたことがあまりにも今振りかえってもその通りすぎる」ということなのだと思う。会社員時代に「こういう仕事ができればなぁ」と思っていたことが「今あたりまえにやってて楽しい」ことになっているし、会社員時代に「つまらない」と思っていたことは「今考えても本当につまらない辞めてよかったこと」になっている。もう少し後悔するかと思っていたのだけど、あまりにも思っていた通りすぎて戸惑ってしまうレベルだ。
 僕は今、毎日、自分が専門家だと胸を張って言える仕事をしている。世界を相手に英語で仕事をしている。頑張りは搾取されず報われる。茨の道だけどそれを楽しんでいる。しかも田舎に住んで自転車で季節や天気の変化を感じながら研究室に通える。自炊して6時間寝れる健康的な生活をおくれる。そして何より、研究が順調で、毎日がワクワクの連続で、面白い発見が次々と出てきて、面白いストーリーが次々と思い浮かぶ。これから論文をどんどん書いていけそうだし、そこに社会人経験が確実にプラスに効いてくれる感覚がある。一年かけて、様々な学会に出て、様々な研究者と話をして、一通り情勢をつかんだことで「どれくらいやれば生き残れそうか」という感触も得られた。あてもなく大海に漕ぎ出したけど、不安は増大する方向よりも、減少する方向に向かってくれている。このまま毎日「楽しい楽しい」といって一生懸命仕事していれば、なんとかなりそうな気がする。気がするだけだけど・・・
 そんなわけで、もう本当にどうしようもないくらい毎日が楽しいのです。正直、会社員の頃は「毎日作業的に生きてるだけだし、一瞬で死ねて、死んで悲しむ人がいないのならいつ死んでもいいよね」という考えで普通に生きていたけど、今は「未来が楽しみでしょうがないので絶対に死にたくない!」と毎日思って生きていて、しょうもないけど、事故や怪我で人生を台無しにしないよう、ものすごく気を付けて生きるようになった。
 今年の年始に立てた目標では「交換不可能な人間としての地位を築くこと」というのを書いた。まだ達成できてはいないけど、年初のとんでもない不安の中でさまよっていた頃からすれば、この1年で達成できそうな道筋が確実に見えてきた。来年の目標は「全てにおいて今のペースを維持する。何ならさらに加速する?」というところでしょうか。具体的には、少なくとも論文を3本は出して、将来の就職先の目途を立てるところまでいきたい。というわけで、楽しさのあまり書きなぐったおもんない日記でした。ではまた来年。

自分の仕事の値段を自分で決められているか


今年の紅葉は赤緑混交でした@東福寺

 研究者は「プロ意識を持って仕事ができる」という点で恵まれているなと思う。プロ意識とは、「自分の仕事へのこだわり」であり、「常に本気を出して最高のものを提供する」という気概だ。僕が会社を辞めることを考えるようになったきっかけとしても、プロ意識を持って仕事に取り組めない会社の環境に不満があったというのは大きかった。
 言うまでもなく、会社の目的は、利益だ。「頑張っても頑張らなくても利益は同じ」という場合、「できるだけ頑張らずに合格点をとって、余った労力を別の仕事に回す」というのが基本的に正しい考えだ。だからビジネスの現場では「顧客の期待を超える最高の仕事で相手を感動させたい」という考えの社員よりも「顧客の期待値レベルを読んで、そのスレスレを攻めてたくさん稼ぐ」社員のほうが高い評価を得られるということが往々にして起こる。プロ意識を持って仕事に取り組む自信と覚悟がありながら、利益を追求する会社に「質より量」で仕事を詰め込まれ、やりたいように仕事ができなくて悶々としている人は、世の中にたくさん存在するはずだ。
 僕自身にとっても、この「効率よく稼ぐためには手を抜けるところは抜け」という考え方は、ビジネスとして正しいことは理解していても、なかなか受け入れがたいことだった。自分の仕事に常にこだわりや自信を持っていたいし、こだわり抜いてないものを外に出して相手に「こんなもんか」と思われながらしぶしぶお金を払ってもらいたくはない。それに、そうやって一生懸命やることを怠って仕事を続けていると、期待値攻めのスキルばかり身について、自分自身も成長できない、と思っていた。
 ではそうならないためにはどうしたらいいのだろうか?プロ意識を持って仕事をすることと、利益を上げることは、両立しないのだろうか?
僕は

自分たちの仕事に自分で値段をつけられているかどうか

ということを、プロ意識を持って仕事に取り組むうえでの必要十分条件として重視すべきなんじゃないかと思っている。平たく言えば「売り手市場に持ち込む」ということなのだけど、「プロフェッショナル」なんかで取り上げられるいわゆるプロの仕事をしている人たちを見ても、この点はほぼ共通していると思う。プライドを持ってプロの仕事をする代わりに、金額はこちらで決め、安い仕事は基本的に受けない、という態度を徹底することが、手抜きの仕事を生み出さないようにするためには必要なのではないだろうか。
 プロ意識を持って仕事をするということは、相手の期待値によらず、自分のベストパフォーマンスを提供し、期待を超える感動を目指すということだ。常に全力で仕事をし、自分を磨き続けているから、実力も自信もある。だから限界までこだわっても元を取れるというだけの値付けができる。これで回っているビジネスが、プロ意識と利益を両立できている仕事と言えるのだと思う。
 「プロの仕事なんか要らないから安くしろ」という需要ももちろんある。すべての仕事がそうあるべきとは思わないしそうはならないだろう。だけど、こだわりが強くて、学者肌で、仕事を通じて他人と交換不可能な専門性を磨きたいという僕みたいな人間は、働く環境を選ぶとき、この「価格を自分で決められているかどうか」という点を最大限重視すべきだと、今改めて会社員時代を振り返ってみて思う。
 今思えば、就活時に内定を辞退した外資コンサルは、まさにこの「高価格のプロの仕事」をやっている会社だった。これは就活生の目としてだけでなく、就職して同業他社の目線から見てもそうだった。僕は「できるだけ広い業界の仕事をして視野を広げたい」というのが就職動機だったので、お客さんの懐事情に合わせて少額案件も手掛け「質より量」の仕事ができる国内系の会社のほうを選んだ。予想通り、かなり幅広い業界の仕事をすることができたし、高価格路線ではお付き合いできなかっただろうお客さんとも仕事ができた。そういう点では、満足だった。だけど、僕はやっぱり「プロ意識」へのこだわりが強かった。そしてそこが会社に対する不満につながっていった。「値段相応の仕事をするべきだ」という考え方に慣れ、「限界までこだわって仕事をする」というプロ意識をだんだん忘れて、そのことに違和感が無くなっていく自分が怖かった。そういう意味では、もし外資のほうに行っていたとしたら、「会社員というもの」に対して感じていた印象も、自分の人生も大きく変わっていただろうと今になって思う。
 今、研究に戻ってきて、「間違いなく自分が世界で一番詳しい」と言えるものがあって、楽しい。僕はやはり、研究者に向いていると思う。研究はビジネスではないけれど、研究において「自分で価格を決める」というのは「どんどん向こうから声がかかってきて、こちら側から研究成果を共有する相手を選ぶことができる」ということだと思っている。常にこだわってフルパワーの仕事ができる今の環境をできるだけ長続きさせられるよう、頑張りたい。

僕が博士進学にあたって会社を辞めた理由


夏の水郷@近江八幡

 修士卒で就職した会社を辞めて博士課程に出戻り、という話をするとよく聞かれるのは「社会人ドクターという選択肢はなかったの?」という質問だ。結論からいうと、僕は会社に所属しながら博士課程に行かせてもらうという選択肢は一切考えなかった。まず大前提として、そもそも修士で就職した理由が「生物の研究一辺倒だった自分の視野を広げたい」で、一番幅広い経験ができそうなコンサル・シンクタンク業界を敢えて選んだ経緯があるので、出戻り先の生物基礎科学の研究は会社の業務内容と一切関係がなく、そもそも会社が許してくれなかっただろうというのがある。だけど、たとえ業務と関連のある研究分野(MBAとか)を進学先に選んでいたとしても、本腰を入れて研究に身を投じるつもりであれば、僕は会社に籍を置いたまま進学するのはあまり良い選択とはいえないのではないかなと思っている。
 で、そう思う理由として考えることはいくつもあるのだけど、シンプルに集約すると

研究って命がけだし、会社との両立って無理じゃないですか?

ということに尽きる。
 研究は命がけでなければならないと思う。それこそ、基礎科学の分野だと就職も厳しいから、そこで生き残ろうとすると、年中無休で命を投じて研究に没頭する学生やポスドクとの競争を戦わなければならない。彼らは文字通り「後がない」状況だから、貧困の中、本当に人生を賭けて頑張っている。そんななかで、社会人ドクターとして、会社に身分と給与を保証された状況で、(会社によるだろうけど)本来業務をこなしながらの同時進行で研究を進めるとなると、モチベーション的にも時間的にもかなり厳しい戦いを強いられるのではないだろうか。
 もちろん社会人ドクターは、会社とのコネクションや社会人経験を活かして、非社会人ドクターよりも効率的に研究ができる側面はあると思う。けどそれでライバルと対等に研究できると考えるのは甘いのではないか。どんなに自分を律する能力が高い人間でも、研究への「命の懸け具合」、言い換えると「100%全リソースを研究に投じていられるかどうか」という決定的な点によって、研究の深さの限界値って決まってくるんじゃないかと思う。
 研究を究めるということは、例え狭い分野であっても「その分野で世界一になる」ということだ。そのためには、星の数ほどある先行研究を調べ尽し、理解し尽したうえで、その上に世界で初めての一歩を踏み出さなければならない。しかもそれを、ライバルよりも早く成し遂げる必要がある。「研究は競争ではない」というけれど、世界で2番目では意味が無くて、1番でなければ評価されないのが現実だ。こんなこと、とても本来業務の片手間で究められるような代物ではないと思う。事実、少ないサンプル数ながら、僕の知る社会人ドクターの方々は、皆能力もモチベーションも高く研究を始めるのだけど、最後までその勢いで走り切り、当初予定の年次で学位を取得した人はほとんど知らない。研究に全リソースを投資できる非社会人ドクターでさえ、数年かけてようやくまとめ上げるのが学位論文の仕事(であるべき)なのだ。
 このことは、「博士取得後アカデミアで生き残るつもりの人」に限らず、「博士取得後にビジネスに戻るつもりの人」にとっても同じことだと僕は思う。それは

どこででも食っていけるだけの研究能力を身に付けるために博士課程に行くのだ

というのが本来像ではないかと思うからだ。この覚悟をもって、会社を辞めて後の無い状況に自分を追い込み、命がけて研究して、期限内で自分の限界・納得いくまで究めて学位をとったうえで、その能力を売り込んで新しい活躍の場を探すというのが目指すべき選択なのではないだろうか。
だから僕は、

「社会人ドクター」という言葉に「往復切符」というニュアンスを含めること

に対しては否定的な意見だ。もちろん、社命による進学もあって、「博士号自体が目的」だったり、「アカデミア界と会社のビジネスの橋渡し的な役目を果たすことが目的」だったりするケースもあると思うから、一概に全否定はできない。けど少なくとも、自分の意思で研究を究める目的で博士課程に飛び込むのであれば、命がけの片道切符のつもりで、後が無い状況に自分を追い込むくらいでやらないと、モチベーションも研究の深さも、中途半端なままに終わってしまうのではないだろうか。
 研究者が貧乏でクレイジーで命懸けなのは今に始まったことではなく、古今東西の常だ。自分の研究成果が世の中の役に立つころには、死んでいるか、誰か別の人が儲けている。それでも、研究に命を投じずにはいられないくらい探求心にあふれた人たちの活躍が、これまでの世の基礎を作ってきたのであり、今の世に「人類が前に進んでいるのだ」という実感と夢を与えているのであり、人知れず未来の世の地固めをすすめているのだ。これくらいの覚悟と自信を伴っていないと、世界一の研究なんて成し遂げられないだろう、と僕は思う。
 極端で原理主義的な考え方だとは思う。もっと応用寄りの分野では、こだわり抜いて世界一を目指すことよりも、ニーズや利益に直結する成果を追い求める研究が正解になることもあるだろう。基礎科学の分野でも、表向きには自分の研究が世の中にどう還元されるかを説明する責任がますます求められるようになってきている。これからは「古き良き研究オタク」ではだめで、バランスの取れた研究者が求められているというのは正しくて、時代の流れだと思う。だから僕も「会社員経験を経てアカデミアに戻ってきたからこそ見えるもの」をできるだけ活かして活躍したいと思っている。
 ただ僕はそれでもなお、研究という仕事は、命を懸けるくらい必死にやってようやく究まることなのではないか、と思うのです。そもそも会社というシステムは、人生を懸けるようにできていない。「自分のやりたいこと」と「会社や顧客のニーズ」がマッチするかは運次第だし、そもそも命を懸けて仕事することが求められていないので、運よく与えられた使命とやりたいことがマッチして自分だけ命を懸けて頑張ったところで、「よく働いてくれるやつ」として利用される一方で大した見返りはなく、結局「そこそこにやる」のが正解になってしまうのが現実だ。さらに会社に給与と身分を保証されながらドクターをとったとなれば、会社に対して大きな義理を負ってしまうことになり、戻ってきた後に安易に辞めるわけもいかず、余計にその環境から抜け出せなくなってしまうのではないかとも思う。むしろ、自営業や起業家に転向するくらいの気持ちで「思いっきりやってみて自分の力を思い知る」というスタイルでやるのが本当の研究というものなのではないだろうか。しかも負債を抱えながらスタートする自営業や起業と比べて、「前払いが基本」の研究は、まだ難易度の低い命の懸け方だと僕は思っている。
長々と書いたけど、言いたいことは

何を目的に博士課程に行くのか?研究を究めることが目的なら、100%フルパワーを研究に注げる環境を整えるべき

というのが僕の考えで、だから会社を辞めて博士に行くことを選んだ、ということです。

問いを立てた瞬間に勝負は決まっている


夕刻の満月@ストックホルム市庁舎(ノーベル賞晩餐会の会場です)

 研究やっててよく思うことだけど、うまくやっている人とそうでない人の違いの一つに「良い問いを立てられているかどうか」というのがあると思う。「良い問い」というのは「より一般化され、より影響範囲が広い」問いだ。平たく言うと

「この問題を解決すれば、より多くの人・場面の悩みに答えられる」という問いをどこまで追究できるか?

ということになると思う。当然、こういう問いを立てようとすると、広い視野を持って「色んな分野の人たちが共通して考えている問題の本質はどこにあるのだろう」ということを、一歩メタなレベルで考えなければならず、難易度は上がる。だけど、最初の段階でしっかりと考えて、仕事の目標を「良い問い」に練り上げることで、それ以降の「答えを出す」フェーズのコスパが格段に上がると思う。具体的には以下のようなメリットがあるのではないだろうか。

「良い問い」は下位概念を吸収できる

一般度の高い「良い問い」に答えることは、必然的に個別具体的なケースに答えることにもつながる。しかも、個々の問題を一つ一つ考えていくよりも効率的で、より広い分野の人間に説明できる結論が得られやすい。

「良い問い」は発展する

視野の広い「良い問い」に答えることで、「例外」や「法則」に気が付きやすくなり、個別具体的なケースを相手にしていては気づき得なかった、発展問題の発見につながりやすい。そうして得られた問題も同じように視点の広い「良い問い」であることが多く、広いケースに適用できる重要な答えを得ることにつながりやすい。

「良い問い」は周囲を巻き込むことができる

「良い問い」は「できるだけ色んな人達が考えていること」を相手にしようとするので、必然的に様々な専門家たちとコラボをする必要が出てくるし、色んな人たちからの関心を引きやすくなる。別々の問題に向かっていた個々人のエネルギーを、統一された問題の解決に集中させることができれば、すごいパワーが出るし、みんな楽しい。

「良い問い」は賞味期限が長い

上記の通り、「良い問い」は考えることが多く、発展した問いも生まれやすく、色んな人を巻き込みやすい。なので、長持ちする。これにより、小さな「答え⇒問い」を繰り返し、その度に専門を変えて新たに勉強する苦しみを味わう必要も無くなる。

なので言いたいことは「仕事は始まりが肝心、本当に解決すべき問題は何か、最初に本当に慎重に考えるべき」ということだ。イノベーションを起こすのは、「良い答え」ではなく「良い問い」だ。問いを立てた段階で勝負は決まっている*1。発展可能性の低い「悪い問い」を立ててしまうと、その問いにいくら尖った答えを出そうとしても、間違ったスタートを挽回するのは難しい。特にチームで仕事する場合は要注意だと思う。一度「悪い問い」で始まってしまうと、それが既成事実化し、立ち戻って考えようと言う責任を負える人も出現せず、リソースだけが消費されて、大した結果が出ないという悲惨な結果に終わってしまいがちだ。
 本当に「良い問い」、つまり「新たな学問分野が立ち上がるくらい、人を巻き込み、大きな問題に発展できるような問い」を立てることができれば、人生を費やすことも可能だと思う。一つの問題を追究して一生食っていけるなんて、専門家冥利につきるけど、そういう問いを見つけるのは本当に難しいし、運も必要だと思う。そのためには、そもそも悪い問いを立てないよう、普段から視野を高く持っておくことはもちろんだけど、悪い問いだと分かってしまった時に深追いせずに立ち戻る勇気もなければならないと思う。

スウェーデン・ウプサラ郊外の池

*1:ちなみにここに書いたのと似たような内容で「イシューからはじめよ」という本があって結構面白いので興味ある人はおすすめです

会社員を辞めて博士課程に出戻って半年たちました


明石海峡大橋

なにやら以下の記事にかなりの反響をいただき、突然普段の1000倍くらいのアクセスがあり、驚いております。
会社員を辞めて学振をとるということ - 日記なんで。

 会社を辞めて学振をとって博士課程に出戻ってきてちょうど半年が経ったわけですが、今の心境はというと「驚くべき後悔のなさ」です。自分でももう少し後悔していると思ってたんすけどね。やっぱり僕は研究者に向いてる。とにかく毎日がワクワクの連続で、本当に研究って面白いなーと思う。世界を相手に新発見を探求していく知的興奮、試行錯誤に寛容なアカデミアの文化、周囲のライバルや仲間の志の高さ、どれも会社員時代にはなかなか味わえなかった楽しさだ。僕は将来もアカデミアに残りたいと思っているけど、僕の研究分野でもポスドク問題はシビアで、常勤のポストはますます絞られ、天文学的に優秀な先輩が職探しに奔走している姿を見て苦しい気持ちになることもある。だけど、そうやって先が見えなくていつまでも冒険し続けなければならないこと自体、死ぬまでに鳥肌を立てたり涙を流したりする回数が多いほうが豊かな人生だと思っている僕にとっては面白いことだと思っていて、一回きりの人生、一つの会社に捧げるよりも、アップダウンがあるほうを選んで良かったんじゃないかなと思う。もちろん、こういう考えの人間は少数派であることは自覚している。もし100人で無人島に取り残されたとしたら、僕は新たな可能性を求めて大海に漕ぎ出す5人くらいの冒険者(半分はその後死ぬ)のほうに入るのだろうと思う。

仕事の進め方の自由度の高さも魅力だ。これは学振DCの最大の特権だと思うけど、

物事の優先順位が、案件の金額や、上司・顧客の意向ではなく、自分の意思で決められる

ということが最高に心地いい。大学とも学振とも雇用関係が無いことになっているというのは本当に搾取なんだけど、だからこそ自分の申請した研究テーマに100%のリソースを割くことができるという側面もあったりする。良いように言えば、学振DCの学生達は、「生きるか死ぬかギリギリの金と最大の自由を与えることで、どんな化けの皮を剥いでくれるのか」ということを試されているのだと思う。ポスドクになったり、常勤研究者になったりすると、雇用主や上司には逆らえなくなるから、優先順位を自分の意思で決めるのはどんどん難しくなる。本当に、今が一番自由で、一番可能性を拡大できる最大のチャンスだ。
 「正しい努力」。天下一品の総本店(聖地)に掲げてある、創業者の木村勉社長の言葉だ。僕はこの言葉がとても好きだ。短い言葉の裏に「間違った努力もある」という、手厳しい、成功者のメッセージが込められていると思う。舵を握るということは、当たり前だけど、成功も失敗も全て自分の責任であるということだ。単に一生懸命やれば成功するほど甘い世界ではない。自分の意思で優先順位をつけられるという、贅沢な環境と、その重みを感じながら大海に漕ぎ出したい。

 ちなみに僕は会社に一度就職したことも、後悔していない。もう一度人生があっても、修士で「一度研究の外に出て考えよう」と考えて就職し、3年くらいで「やっぱり研究が良いよね」となって戻ってくる人生を歩むと思う。結局、「人生の岐路で、将来後悔のしようが無いくらい迷ったかどうか」ということに尽きるのではないか。そうするしかない、という強い意志があれば、絶対に飛び降りたほうが楽しいし、後悔はないはずだ(それでも失敗する可能性はあるということは考えておいたほうが良いと思いますが)。

お金が無くても、無くしてはならないもの

 ところで、最初に会社を辞めてアカデミアに戻りたいという話をしたときに、100%歓迎してくれた研究者は僅かで、ほとんどの研究者が「安定して高給の職を捨ててこちらに来るなんてとんでもない」という反応だった。僕はこれが一番悲しかった。研究者ってホンマはめっちゃカッコいい職業だと思うんです。子供のあこがれの職業で常に上位だし、なんだかんだで世間的には尊敬の対象だし、大発見ができれば世間を賑わしてヒーローになることもできる。それなのに、戻ってこようとする人間に対し、自分の選んだ道を否定するような発言をするなんて、この業界の将来はどんだけ荒んでるのだ、と思った。
 それでも僕が戻りたいと思えたのは、数少ないながら「うっひょー研究めっちゃ楽しいし、茨の道だけどそれも楽しい!」という人達がいたからだ。とくに30代・40代になってそれを言える人達は、本当にカッコいいし、自分もそうなりたいと思った。「憧れ」と言ったらなんかダサいけど、それって結構大事なんじゃないかなと。確かにお金も安定もないけれど、この楽しさやワクワク感は、科学の最大の醍醐味であり、原動力だ。決して無くしてはならない。ただでさえ「やりがい搾取」なのに、「やりがい」すら無くしたら単なる搾取ではないか。なので、少なくとも僕は、進んでくる後輩に「めっちゃ楽しいで!金ないけどな!」ということを言えるように頑張りたいと思う。件の記事も、「もどるのはやめたほうがいい」ということが言いたいのではなく、「考えたうえで選ぶべき」ということを自分なりに書いたつもりだ。

さいごに

 改めて、件の記事(3か月前)を読み直すと、「今の自分にはそこまで激しいこと書けないなぁ」という感想で、自分も少しずつ、アカデミアの金銭感覚に洗脳されつつあることを自覚しました(自腹出張なんかも普通にやるようになってきたし、、、)まさに「会社員を辞めて、博士課程に戻ってきたあの時だからこそかけた文章」なのだと思います。もっと「好きなことやってんだから贅沢言うな」というコメントが多いかと思いましたが、ほとんどが同意・応援のコメントで、大変励みになると同時に、「やっぱりおかしいと思ってくれる人が多いんだな」ということに安心と自信を得られました。これからも頑張ります。

夕日@敦賀

一生懸命はダサい


飛騨の森

 「意識高い系」という、高みを目指す人を揶揄する言葉があるけど、面白い言葉だ。「一生懸命取り組んでいる人を小馬鹿にするな」と怒る人もいるけど、人が必死だったり一生懸命だったりする姿ってどうしても「ダサく見えてしまう」ものなんだと思う。
 だいたい、自分が一生懸命やっているつもりになっていることのほとんどは、後で振り返ってみると「大したことない」ことだったりする。まぁ、できるようになったあとに、できなかった頃の自分を振り返るわけだから、「大したことない」のはある意味当然なんだけど、重要なのは「本当のゴールを見据えて努力できているか」ということなんじゃないかと思う。
 中学・高校・大学時代と、振り返ってみると、本当に学校でトップレベルに勉強やスポーツができるやつは、淡々としているやつが多かった。一生懸命な様子やストイックな様子をあまり見せず、黙々と勉強や練習をこなしていて、本番では安定してぶっちぎりの成績をおさめる、というタイプが多かった。彼らは、決して努力をしていなかった訳ではなく、努力を向ける先を、目の前の小さな問題ではなく、本当に成し遂げるべき大きな目標に全て集中させていたのだと思う。

 今自分が取り組んでいる問題は、大きな目標に向かうための1ステップでしかない、そんなに大したことじゃない

という意識で、目の前の出来事に淡々と、労力をかけ過ぎず、しかし抜かりなく取り組み続けた結果、本当の目標に真っ直ぐ進んでいくというやり方だったのではないだろうか。
 対して、大したことが無い目の前の問題に、必死に、一生懸命になるのはダサい。大きな目的ではなく、目先の手段にとらわれているように映るからだ。目的に向かうための自分の熱意に自信が持てないか、目的に向かうための戦略が立てられないのをごまかすために、一生懸命に高みを目指す自分の姿に安心しようとしているように映る。
 本当に必死になるべきは、ぶれない目標を立てて、それに向かうための戦略を正しく組立て、計画通りに自分を律することなのではないか。そして、そういう必死さは、自分に向いているから、他人の目に触れることはない。だから、外から見ると、「淡々とこなしてすごい成果をあげる人」という風に映る。本人は、「当たり前のことをやってきただけなんすけどね」というけど、裏ではすごい計算しまくって、どうやったら本当の目標に早く近づけるかを考えまくっている。そして、無駄なことに労力を割かない。道中で壁にぶつかりそうになっても、本当の問題はその壁ではないことを分かっているから、どう目標に到達するかだけを必死に考える。そして、気づいたら壁を過ぎている。そういうやり方のほうがカッコいいし、早く目標に到達できると思う。
 自分の努力を表に出す奴は、自信が無いやつで、悩んでばっかりで、なかなか前に進めない。そして面倒くさくてダサい。個人的には、小中学の教育で、「努力を人に見せることは良いこと」という考えを刷り込んでいることが、この手段と目標を取り違える人間(意識高い系)を量産しているように思う。なんだったんだろう、あの空気。
 大きな目標に向かって、無駄な労力を割かず、淡々と真っ直ぐに進んでいく、クールな姿が理想だ。一生懸命になっている自分に気づいたら、「いやそれ本気出すとこか?」「本当の目標はなんだ?」と常に問うようにしたい。
 「意識高い系」という言葉は、そんなに悪い言葉じゃないと思う。人に向かって使う言葉ではないけれど。