僕が博士進学にあたって会社を辞めた理由


夏の水郷@近江八幡

 修士卒で就職した会社を辞めて博士課程に出戻り、という話をするとよく聞かれるのは「社会人ドクターという選択肢はなかったの?」という質問だ。結論からいうと、僕は会社に所属しながら博士課程に行かせてもらうという選択肢は一切考えなかった。まず大前提として、そもそも修士で就職した理由が「生物の研究一辺倒だった自分の視野を広げたい」で、一番幅広い経験ができそうなコンサル・シンクタンク業界を敢えて選んだ経緯があるので、出戻り先の生物基礎科学の研究は会社の業務内容と一切関係がなく、そもそも会社が許してくれなかっただろうというのがある。だけど、たとえ業務と関連のある研究分野(MBAとか)を進学先に選んでいたとしても、本腰を入れて研究に身を投じるつもりであれば、僕は会社に籍を置いたまま進学するのはあまり良い選択とはいえないのではないかなと思っている。
 で、そう思う理由として考えることはいくつもあるのだけど、シンプルに集約すると

研究って命がけだし、会社との両立って無理じゃないですか?

ということに尽きる。
 研究は命がけでなければならないと思う。それこそ、基礎科学の分野だと就職も厳しいから、そこで生き残ろうとすると、年中無休で命を投じて研究に没頭する学生やポスドクとの競争を戦わなければならない。彼らは文字通り「後がない」状況だから、貧困の中、本当に人生を賭けて頑張っている。そんななかで、社会人ドクターとして、会社に身分と給与を保証された状況で、(会社によるだろうけど)本来業務をこなしながらの同時進行で研究を進めるとなると、モチベーション的にも時間的にもかなり厳しい戦いを強いられるのではないだろうか。
 もちろん社会人ドクターは、会社とのコネクションや社会人経験を活かして、非社会人ドクターよりも効率的に研究ができる側面はあると思う。けどそれでライバルと対等に研究できると考えるのは甘いのではないか。どんなに自分を律する能力が高い人間でも、研究への「命の懸け具合」、言い換えると「100%全リソースを研究に投じていられるかどうか」という決定的な点によって、研究の深さの限界値って決まってくるんじゃないかと思う。
 研究を究めるということは、例え狭い分野であっても「その分野で世界一になる」ということだ。そのためには、星の数ほどある先行研究を調べ尽し、理解し尽したうえで、その上に世界で初めての一歩を踏み出さなければならない。しかもそれを、ライバルよりも早く成し遂げる必要がある。「研究は競争ではない」というけれど、世界で2番目では意味が無くて、1番でなければ評価されないのが現実だ。こんなこと、とても本来業務の片手間で究められるような代物ではないと思う。事実、少ないサンプル数ながら、僕の知る社会人ドクターの方々は、皆能力もモチベーションも高く研究を始めるのだけど、最後までその勢いで走り切り、当初予定の年次で学位を取得した人はほとんど知らない。研究に全リソースを投資できる非社会人ドクターでさえ、数年かけてようやくまとめ上げるのが学位論文の仕事(であるべき)なのだ。
 このことは、「博士取得後アカデミアで生き残るつもりの人」に限らず、「博士取得後にビジネスに戻るつもりの人」にとっても同じことだと僕は思う。それは

どこででも食っていけるだけの研究能力を身に付けるために博士課程に行くのだ

というのが本来像ではないかと思うからだ。この覚悟をもって、会社を辞めて後の無い状況に自分を追い込み、命がけて研究して、期限内で自分の限界・納得いくまで究めて学位をとったうえで、その能力を売り込んで新しい活躍の場を探すというのが目指すべき選択なのではないだろうか。
だから僕は、

「社会人ドクター」という言葉に「往復切符」というニュアンスを含めること

に対しては否定的な意見だ。もちろん、社命による進学もあって、「博士号自体が目的」だったり、「アカデミア界と会社のビジネスの橋渡し的な役目を果たすことが目的」だったりするケースもあると思うから、一概に全否定はできない。けど少なくとも、自分の意思で研究を究める目的で博士課程に飛び込むのであれば、命がけの片道切符のつもりで、後が無い状況に自分を追い込むくらいでやらないと、モチベーションも研究の深さも、中途半端なままに終わってしまうのではないだろうか。
 研究者が貧乏でクレイジーで命懸けなのは今に始まったことではなく、古今東西の常だ。自分の研究成果が世の中の役に立つころには、死んでいるか、誰か別の人が儲けている。それでも、研究に命を投じずにはいられないくらい探求心にあふれた人たちの活躍が、これまでの世の基礎を作ってきたのであり、今の世に「人類が前に進んでいるのだ」という実感と夢を与えているのであり、人知れず未来の世の地固めをすすめているのだ。これくらいの覚悟と自信を伴っていないと、世界一の研究なんて成し遂げられないだろう、と僕は思う。
 極端で原理主義的な考え方だとは思う。もっと応用寄りの分野では、こだわり抜いて世界一を目指すことよりも、ニーズや利益に直結する成果を追い求める研究が正解になることもあるだろう。基礎科学の分野でも、表向きには自分の研究が世の中にどう還元されるかを説明する責任がますます求められるようになってきている。これからは「古き良き研究オタク」ではだめで、バランスの取れた研究者が求められているというのは正しくて、時代の流れだと思う。だから僕も「会社員経験を経てアカデミアに戻ってきたからこそ見えるもの」をできるだけ活かして活躍したいと思っている。
 ただ僕はそれでもなお、研究という仕事は、命を懸けるくらい必死にやってようやく究まることなのではないか、と思うのです。そもそも会社というシステムは、人生を懸けるようにできていない。「自分のやりたいこと」と「会社や顧客のニーズ」がマッチするかは運次第だし、そもそも命を懸けて仕事することが求められていないので、運よく与えられた使命とやりたいことがマッチして自分だけ命を懸けて頑張ったところで、「よく働いてくれるやつ」として利用される一方で大した見返りはなく、結局「そこそこにやる」のが正解になってしまうのが現実だ。さらに会社に給与と身分を保証されながらドクターをとったとなれば、会社に対して大きな義理を負ってしまうことになり、戻ってきた後に安易に辞めるわけもいかず、余計にその環境から抜け出せなくなってしまうのではないかとも思う。むしろ、自営業や起業家に転向するくらいの気持ちで「思いっきりやってみて自分の力を思い知る」というスタイルでやるのが本当の研究というものなのではないだろうか。しかも負債を抱えながらスタートする自営業や起業と比べて、「前払いが基本」の研究は、まだ難易度の低い命の懸け方だと僕は思っている。
長々と書いたけど、言いたいことは

何を目的に博士課程に行くのか?研究を究めることが目的なら、100%フルパワーを研究に注げる環境を整えるべき

というのが僕の考えで、だから会社を辞めて博士に行くことを選んだ、ということです。